官庁の集中

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長野が発展した第一の理由は県庁が置かれたことだった。長野県庁もけっして安定したものではなく、初代権令は二度も県庁を上田へ移したいという伺いを内務省へ出したが許可されなかつた。明治十三年・十四年には、松本出身の県議で自由民権論者だった市川量造らが分県運動をしたが成功しなかった。二十一年・二十三年にも県会に移庁論が出され、二十四年には松本で開かれた「移庁大親睦会」が暴動に発展、郡長や警察署長宅が襲撃され、また税金不納運動がくりひろげられた。

 この結果、松本は政府からにらまれるようになり、長野を上回る人口をもちながら、市制実施は長野より一一年もおくれた。その後も分県論・移庁論は何度ももちあがったが実現せず、長野には中央官庁の出先機関などがたくさんできて、県庁としての地位は動かぬようになった。

 県庁は明治四年(一八七一)七月から七年十月まで三年あまり西町西方寺に置かれ、この月袖長野(西長野)に移されたが、明治四十一年五月焼失、城山の共進会(博覧会)跡の建物を仮用し、大正二年(一九一三)十月南長野幅下の現在地に新築移転した。この庁舎は昭和四十五年(一九七〇)まで五四年間使用されたのち、現本館が完成した。

 県会議事堂は明治二十年十二月、現在の県庁舎の北に新築、翌日焼失(放火らしい)、同二十三年再建、大正二年失火で焼失、翌年再建され、昭和四十三年に県庁改築にあわせ、本館南西に接して改築された。


写真41 県会議事堂 明治20年12月21日新築、翌日朝焼失。明治23年再建、大正2年焼失。この写真は明治35年


写真42 県会議事堂 明治23年建築。県庁の地はまだ水田


写真43 大正2年新築の県庁 右の県会議事堂の下にあり、地字は幅下

 裁判所は明治九年にできたが、同十九年に花咲町に移り、同二十三年、長野地方裁判所・長野区裁判所になった。上水内郡役所は明治十二年にはじまり、同三十五年県町に新築移転、長野測候所は明治二十二年にでき、大正六年城山県社前からその北側に移った。

 明治十八年四月、長野町ほか四ヵ町村連合戸長役場ができたとき、役場は元善(もとよし)町の旧宝勝院(現宝林院)に置かれた。七月には旧宝林院念仏堂へ移した(現城山小学校の地)。同二十年には立町に移り、明治二十七年、現城山小学校構内へ新築、移転した。学校が明治二十四年の大火で焼失、同二十七年に長野町高等小学校として再建したのにあわせ、校門内左側(北側)に新築された。同三十年、長野市制施行後も市役所として使用されたが、同三十一年十一月、若松町に新築移転した。昭和四十年、緑町の現在地に移った(『市誌研究ながの』三号)。

 明治時代は諸官庁・会社・銀行などはすべて旧市内にあり、郊外にあったのは芹田の農事試験場だけだった。

 大正七年長野県蚕業試験場が岡田にでき、同十年には長野貯金支局ができた。