文化(ぶんか)十年(一八一三)凶年で米価が高くなり、銭一〇〇文に一升二合ほどになった(天保八年(一八三七年)には、二合五勺にまであがったことがあるから、さほど高いとはいえない)。しかし穀屋(こくや)が米を買い占めているとのうわさに憤慨した下層町民が、十月十三日の夜八時ころ、騒動を起こした。参加者は顔に墨を塗り、ほおかぶりなどをして顔をかくしていた。狭い町だから、顔を知られているものが多いためであろう。参加者は二〇〇人くらいだが、中心となっていたのは五〇人ほどであった。まず穀問屋・穀屋がおそわれた。穀問屋三軒、穀屋一九軒、酒屋一軒の合計二三軒が被害を受けた。後町(ごちょう)は大門町との境へはしごをたくさん並べて、一揆の侵入を防ぎ、一揆と後町の町民がはしごをへだててなぐりあった。しかし一揆が屋根へのぼって瓦を投げたので、後町側は逃げてしまった。そこで富商四軒が乱暴された。騒ぎは夜一二時ころには鎮まった。
騒いだのは一部町民だけで、農民は参加しなかった。善光寺町は善光寺の寺領だったから、善光寺は首謀者と目される十数人をつかまえて松代藩に取調べを依頼し、また領内の富商に御用金を課して米を買い入れて、町内の食糧難をやわらげた。
善光寺ではこれにこりて、天保の飢饉のときも早くから食糧の手配に気をくばった。