午札(うまさつ)騒動

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松代藩は藩財政の窮乏を救うため、商法社を設立、明治二年(一八六九)末から商法社札(しょうほうしゃさつ)という紙幣を二〇万両余発行し、これで蚕種などを買い集めた。商法社の頭取は更級郡羽尾(はねお)村(戸倉町)の大谷(おおたに)幸蔵だった。それまで蚕種は年々騰貴(とうき)をつづけていたが、明治三年には暴落し、仕入値の半分以下になって、商法社の赤字は一〇万両以上に達した。

 このころ、政府は各藩の藩札(はんさつ)を政府発行の太政官札(だじょうかんさつ)と引きかえることを命じた。松代藩は政府と交渉したが、けっきょく商法社札は二割五分引きで太政官札と引きかえること、年貢金納相場(きんのうそうば)を一〇両に籾(もみ)四俵半とすることなどを命ぜられた。松代藩はすでに、金納相場は一〇両に籾七俵、商法社札でもよいと布告してあったので、四俵半、二割五分引きでは領民が承知しないだろうという声も強かったが、政府の命令だからしかたなくこれを布告した。

 松代藩の年貢は籾高(もみだか)できめられる。たとえば籾一〇俵を納めろと命ぜられた百姓は、相場が七俵ならば納める金は一四両余である。ところが相場が四俵半だと二〇両余払わねばならない。しかも、商法札で納める場合は、そこへ二割五分を加えて二四両半納めなければならない。つまり七割以上の増税と同じである。これでは百姓がおさまるわけがない。

 たちまち領内に動揺が起こり、明治三年十一月二十五日、まず大谷幸蔵の家が焼きはらわれた。二十六日朝には一揆(いっき)が松代へ乱入して、役人など士族の家二五軒、町屋(まちや)一一六軒ほどを焼きはらった。藩当局は相場(そうば)七俵、商法社札・藩札の太政官札との等価(とうか)引きかえを約束させられた(この約束はあとで政府の命令で取り消された)。

 一隊は善光寺町に乱入し、後町(ごちょう)の文房具屋「筆久(ふできゅう)」へ押しいって、表具(ひょうぐ)用の赤地錦(あかじにしき)を持ちだし、それを竹の先につけて「錦の御旗(みはた)」とし、つぎに石堂の瀬戸物屋高松屋忠七方を打ちこわした。この人は目明(めあか)しをして、この数年間で金をためこんでいたという。

 打ちこわされたのは、チャラキン(西国諸藩がつくったという質の悪い二分金。これが大量に入ってきて、物価を騰貴させていた)遣(づか)いと見なされている商人、金貸し・岡っ引(目明し)らだった。被害のいちばん多かったのは大門(だいもん)町と権堂(ごんどう)の一二軒ずつ、ついで後町九軒など、あわせて八〇軒ほどが被害にあった。役人では、大勧進代官(だいかんじんだいかん)の今井磯右衛門家が被害にあった。権堂は被害にあった一二軒のうち一〇軒まで水茶屋(みずちゃや)で、しかもそのうち四軒は岡っ引、一軒は岡っ引の親類ということでやられた。そのほか「平日悪評」とか「不断不仁(ふだんふじん)にて、利にさときゆえ、世に云う人非人(ひんぴにん)の由(よし)」などという理由で打ちこわされた家もある(「松代騒動一件」信濃史料叢書一九巻)。