米騒動

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大正七年(一九一八)八月十七日夜、長野市で米騒動が起きた。このころ、物価の値あがりがはげしく、収入はふえず困っている人が多かった。職工・職人は大戦景気で労働力が不足し、賃金があがったが、俸給生活者は困窮した。たとえば巡査は平均月給一七円余で、三五パーセントの家庭が赤字、小学校教員は月給三〇円以下が八七パーセントをしめ、生活が苦しかった。

 この年は、米価の値あがりがはげしく、一升二五銭くらいだった米が六月には三四銭になり、八月十二日には四〇銭にもなった。

 八月十六日夜、小林哲治・長田長治の二人が、「米価引下市民大会、十七日午後六時ヨリ長野市記念公園ニテ」と書いた紙をはっだ。この二人は小さな新聞の通信員だった。その夜、城山の音楽堂周辺に約千人の群衆が集まった。主催者の長田は演説を始めたが、あまり反応が大きいので恐ろしくなって小林とともに姿をくらましてしまった。

 そのあと、アジ演説をするものがあり、数百名が町へ押しだし、権堂町の谷屋を手はじめに米屋二十余軒を襲い、「一升二十五銭」の張紙を強制的に出させた。さわぎは午前四時ころになってようやくおさまった。十八日の午前六時ころから、貧民たちが米屋の前に列をつくって二五銭の米を買った。十八日の夜も市民が集会のため公園に集まりはじめたが、多数の警官が警戒して集会を開かせず、また松本連隊から一〇〇人ほどの軍隊が出動したが、すでにさわぎは終わっていた。この事件で送検されたものは五六人、首謀者二人とアジ演説をしたもの一人が懲役に処せられ、二二人が罰金を課せられた。これより先、七月十八日富山県魚津町で漁民の妻たちが騒ぎはじめ、それがきっかけで九月までに全国五〇〇ヵ所ほどで騒ぎがおこったが、長野の米騒動もその一つだった。