警廃事件

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大正十五年(一九二六)六月、時の知事梅谷光貞と警察部長竹下豊次は岩村田・中野・屋代の三つの警察署と二〇の分署の廃止を発表した。この年六月三十日限りで郡役所が廃止され、この三つの町はそれぞれ郡役所の所在地だから、町が衰えると心配していたのに、そのうえ警察署まで廃止されるというので、この三町民は怒りだした。

 七月十八日の日曜日、八時五分長野駅着の列車で岩村田の赤だすき先発隊三〇〇人、また十時半には岩村田の後続隊四〇〇人と屋代の白だすき隊四〇〇人が到着し、末広町から中央通りを城山へ向かった。

 城山で県民大会を開く予定だった。ところが県庁東門に通じる寿(ことぶき)町通り(信毎通り)にさしかかると、「県庁へ行け」という声がおこり、指揮者や警官の制止をふり切って県庁へ押しかけた。それから県知事官舎に押しかけ、知事を裏庭に引きだして袋だたきにした。つづいて警察部長官舎へ押しかけた。部長は柔道の心得があったので、二、三人を投げとばしたが、多勢に無勢で、これもたちまち袋だたきにされてしまった。

 いっぽう長野電鉄権堂駅で降りた中野の八〇〇人は、西後町の松橋久左衛門の店(鍋久)へ押しかけた。松橋県議が警察署の廃止に賛成したのがけしからぬというのである。石を投げて窓ガラスをわり、店の内へ乱入して鍋や釜を投げとはした。それから一同約二千数百人が城山に集まり、午後一時ころから県民大会を開き、そのあと議事堂へ押しかけ、石を投げ、鉄格子の扉を破って乱入したりした。群衆が引きあげたのは午後五時ころである。まるで百姓一揆のようだった。のち主謀者六人に六ヵ月の実刑、そのほか六四人が執行猶予つきの有期、六〇人に罰金刑がいいわたされた。

 梅谷知事と竹下部長は八月五日付けで依願免官になった。