鐘鋳堰

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鐘鋳堰(かないせぎ)はいつできたかわからない。一遍聖絵(ひじりえ)(清(しょう)浄光寺本)の善光寺門前には二つの川が描かれており、南大門前の川が鐘鋳堰、大きな方の川が裾花(すそばな)川だろうともいわれる(『鐘鋳堰の話』)。県立歴史館に展示されている善光寺門前の模型も、南大門前の溝は鐘鋳川と説明されている。しかし南大門の下に大門町があり、鐘鋳川をへだてて後町が下につづくのが、古代以来の姿であろう。

 「鐘鋳川では水は水平に流れる」「妻科(分水囗)より吉田(流末)の方が一尺高い」などといわれるほど、この用水はかなり無理なコースを通っている(『鐘鋳堰の話』の堰守の序)。明治三十五年(一九〇二)の桐原区長の「鐘鋳堰沿革取調書」にも「この堰は自然の流れではない。堰の底はむしろ中流以下の方が高いくらいで、水が容易に流末に達しないことがある。ましてひでりの時は、十日余も水の影を見ないことがある。」(同書)と書かれている。このような難工事が古代において可能だったか、近世初期、松代城代花井吉成らが、新技術を駆使して造ったのではないかという疑問もある。ただ、慶長(けいちょう)六年(一六〇一)に与えられた善光寺領は、鐘鋳堰が他領との境になっているところがあるから、これより前に堰があったことは確かである。吉成のとき、改修されたのだろう。

 『県史通史』④はつぎのように説明している。「領主がわが中心となって開削(かいさく)した大規模な用水堰も多かった。北信の善光寺平南部では慶長年間(一五九六~一六一五)、松代に入封した森忠政・松平忠輝の財政的援助によって、水利開発がおこなわれた。そのひとつは、裾花川の河身変更にともなう鐘鋳堰などの開削であり、ひとつは犀囗から川中島平に開削された三条の用水堰である」。

 花井遠江守(とおとうみのかみ)吉成(?~一六一三)は、三河出身で能役者であったが、徳川家康の側室お茶阿に認められ、その娘を妻とした。お茶阿は家康の六男忠輝を産み、吉成は忠輝の義兄となった。吉成はまた、大久保長安とも姻戚関係にあった。慶長八年、忠輝は川中島一九万石(うち飯山四万石は家臣皆川広照に与える)を与えられた。しかし忠輝は一二歳だったので、実務は大久保長安がおこない、吉成は海津城代になった。同十五年に忠輝は越後にも領地を与えられ、六〇万石の大身になったが、吉成は海津城代として一五万石を支配した。吉成が慶長十八年に死去したのち、子主水(もんど)義雄が継ぎ、工事を完成したといわれる。大坂夏の陣のとき、忠輝の家臣が、行列の前を横切った秀忠の旗本を殺した責任を問われ、義雄は改易され、寛永(かんえい)七年(一六三〇)に没した。長子は忠輝に従って諏訪で没し、その弟は土佐山内藩に仕えた。吉成の墓は松代西念寺にあり、また吉成・義雄を祭神とする花井神社が篠ノ井小松原の中尾山にある。

 鐘鋳堰には一〇九ヵ所もの分水口があり、妻科で聖徳堰と中沢堰が、康楽寺裏で七ッ釜用水が分かれる。このうち、中沢堰は権堂と問御所の境になり、北国(ほっこく)街道(中央通り)を横切るところの橋を地獄橋といった(なお、北国街道の鐘鋳堰の橋は花相橋、北八幡堰にかかる橋を鶴が橋といい、ともに善光寺七橋の一つに数えられている)。中沢堰は北条(きたじょう)・平林の用水になっており「今溝」とはこの堰だという説もある。


写真44 鐘鋳川取入口の簗手 大正13年8月、簗手を破壊された鐘鋳堰組合の人々が再築しているところ。左手が上流