八幡堰

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平安時代末期永万(えいまん)年間(一一六五~六六)、今溝荘という荘園ができ、元徳(げんとく)元年(一三二九)の文書(もんじょ)には「今溝庄北条」が見える。今溝庄はのちの北高田村の区域であろう。その中心は中村であり、その産土神(うぶすながみ)は守田廼(もりたの)神社(守田八幡宮)である。現在、北八幡堰(はちまんせぎ)がこの社の境内をめぐって流れている。「今溝」というのは、「新しくできた用水」という意味であろう。

 近世以降の八幡堰は、現在の信濃毎日新聞社裏で北と南に分かれ、北八幡川は後町と新田の境になっており、鍋屋田小学校の校地の南をとりまいて市役所裏、居町から守田廼神社へ流れる。この用水は島津氏が造ったともいわれ別名を島津堰といったと伝えられる。

 南八幡堰は栽松院(島の寮)の北側を通り、千歳町通り、長野大通り、ガス会社の下をくぐって七瀬観音堂前から桜ヶ岡中学校南へ流れる。千歳町と長野大通りのあいだは、川端がよく整備され、あやめなどが植えられ、景観地区になっている。この堰の末は北長池で、堰守(せぎもり)はここから出す。


写真45 北八幡川(左)と南八幡川の分岐点 (信濃毎日新聞社裏)