鐘鋳堰(かないせぎ)用水組合は妻科(つましな)(長野町)、荒屋・平林・北条(以上古牧村)、三輪・返目(三輪村)、稲田(若槻村)、桐原・太田・中越・吉田(以上吉田町)の旧一一ヵ村で組織している。管理者を堰守(せぎもり)という。
八幡山王(はちまんさんのう)堰組合は長沼組合(旧長沼村と古里村富竹・金箱)、栗田組合(栗田・千田・荒木・中御所)、簗手取(やなてどり)組合(朝陽・古牧・芹田・南長野などの旧松代藩領二二ヵ村)から成っている。このうち、北八幡堰は長沼、南八幡堰は北長池、山王堰は栗田がそれぞれ管理権をもち、堰守を出していた。また、北八幡から分流する六ヵ郷用水(西和田・東和田・北尾張部(おわりべ)・石渡(いしわた)・南堀・北堀)では、上流にあたる西和田が筆頭だった。これらは、それぞれ、島津氏・栗田氏・和田氏の領主としての力が関係していると考えられるが、よくわからない。
鐘鋳堰・八幡山王堰は、妻科村地域の裾花(すそばな)川に簗手(やなて)という石俵を並べたせきを作り、引水する。簗手は上流に鐘鋳堰が、その二〇〇メートルほど下流に八幡山王堰が造った。水の豊富な年は両堰へ水が入るが、水の少ない年は、夜は鐘鋳堰へ、昼は八幡山王堰へ水をまわす。その交代は朝六ッと暮六ッ(だいたい午前四時と午後四時ころ)である。
夜明けを待ちかねて、八幡堰の簗手組の人びとが、上流の簗手の一部(二ヵ所)を崩して水を八幡・山王堰へまわす。夕方には鐘鋳堰の人たちが簗手を修理して水が鐘鋳堰に流れるようにする。このときに動かされる石俵はおよそ一〇〇俵で、それを毎日つめたり崩したりしておよそ一〇〇日におよぶ。石俵では十分止水できないから、内部に古ねこを張る。これらはすべて危険を伴う重労働であった。止水のときも切払いのときも、他方の堰の人びとが監視している。明六ッ暮六ッといっても、時間がはっきりしないので、紛争が起きがちだった。そのため和時計を使用したことがある。鐘鋳堰では、もっとも多くの水を必要とする田の荒塊(あらくれ)のときは下流から水を入れることになっており、明治初年は六月二十日に初簗手と称して水を流し、二十一日~二十三日は太田、二十五、六日は吉田と、だんだん上流へさかのぼることになっていた。
水争いは非常に多かった。まず取入れ口で両組合の争いがある。八幡堰では北八幡堰と南八幡堰の争いがあり、天保(てんぽう)十三年(一八四二)には、南八幡堰組合が分水口を切り開けたとして訴訟事件に発展した。北は一丈五尺一寸、南は一丈一尺四寸五分と決め、絵図面を作製して和解した(『古牧誌』)。この境には亀石という大石が埋められている。
大正十三年(一九二四)には五月下旬からほとんど降雨がなく、七月一日から、八幡・鐘鋳両堰組合の水の取り合いになり、十五日から十七日にかけて両組合とも数百人を動員していがみあいになった。この事件は裁判になったが、乏しい水源を双方で奪いあうだけなので、いくら争っても解決の道はなかった。