善光寺平農業水利改良事業-犀川からの揚水

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裾花(すそばな)川は年々減水の傾向にあり、鐘鋳堰(かないせぎ)、八幡(はちまん)堰両組合の争いは果てしなくつづいている。これを心配した長野市農会幹部らは、犀(さい)川から引水して両用水の不足を補う案を考え、昭和四年(一九二九)、犀川揚水期成同盟会を結成、長野市長丸山弁三郎が会長になった。そして、同五年十二月、善光寺平耕地整理組合を設立した。鐘鋳堰・八幡山王堰両組合のほか、大豆島(まめじま)地区を潤す四ヶ郷用水組合(犀川から引水)が加わり、灌漑(かんがい)面積はおよそ一七〇〇町歩だった。小市(こいち)地区で犀川から引水、裾花川の下をくぐり、七瀬観音堂西で南八幡川に補水、居町の長野信用金庫本店裏で北八幡川に補水する。途中で山王堰関係の用水へも分水する。また、取入れ口の近くで四ヶ郷用水への分水路を造り、裾花川の下をくぐり、四ヶ郷用水を補う。工事は県営で施工され、昭和十一年十一月完成した。

 「今や用水潤沢、また旱害(かんがい)を知らず。児孫長(とこし)へに豊饒(ほうじょう)の秋を楽しむべし」

 県庁西の八幡・山王堰の分水口に建つ竣工記念碑には、このように刻まれている。数百年の用水争いを一挙に解決した大事業であった。

 大正から昭和初期まで、干害の年は被害が約八〇ヘクタールもあったが、犀川からの補水ができてからは一〇分の一の八ヘクタールに減少、堰の修理代は約半分になった。水争いがなくなり、労力を仕事にまわせるようになったことも大きい(『わたくしたちの郷土』)。