門前町のにぎわい

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近世善光寺町の人口は、後期には一万人を少し超えていた。ふつうの門前町は、大寺社でも二〇〇〇~三〇〇〇人で足りるもので、善光寺町は門前町だけでなく、商業の中心としての役割をも果たしていた。

 小林一茶は、享和(きょうわ)元年(一八〇一)五月十日に、病父のために善光寺で梨を買おうとした。「いったいこの地は御仏の浄土だから、店は軒を並べ、のれんは風にひるがえり、町へ入る人出る人、国々から歩みを運んで、未来成仏を願わぬ人はない」と書き、町中を走りまわってさがしたが、季節はずれの梨はどの店にもなく「この地にないものが、どこにあろうか」とあきらめて帰途につく。この話は善光寺町がこのあたりの中心都市だったことをよく物語っている(『父の終焉(しゅうえん)日記』)。

 清河八郎は安政(あんせい)二年(一八五五)四月十五日に善光寺に参詣し「善光寺は信州第一の繁華で、北国・江戸の往来路にあたり、参詣の者が日本中から集まり、日々の賑(にぎ)わいがおびただしい」(『西遊草』)と述べている。近世の善光寺町が、他国の人からみても、かなりにぎやかな町に見えたことがよくわかる。

 「参詣の人びとは百里を遠しとしないでここに集まる。また北国往来で旅人も多い。領地は入り交っているが、善光寺平と称する地は、南北十余里、東西五、六里で、ことごとく平地である。また山国だが、山中にも村々が多い。市町(いちまち)は山中の村にも平地の村にも便利な地で、炭・薪・麻・木綿・雑穀をおびただしく商う。北海へはわずか一六里余をへだてるだけで、生魚も入ってくるし、千曲(ちくま)川・犀(さい)川からは川魚がすぐに手に入る。田畑ともに二毛作のできる徳がある。そのほか、山海の魚島、四季の野菜も、すぐに手に入る。毛物・織物など諸国の新製品も流行に従って好まれている」。

 これは権堂村名主善左衛門が弘化大地震直前の善光寺町のにぎわいを述べたものだが、ほぼ事実に近いだろう。