十二斎市

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近世初期には、定期市がさかんで、北信濃では一六ヵ所で開かれていた。現長野市域では善光寺と松代が十二斎市(さいいち)(月に一二日)、原・笹平が六斎市だった。善光寺町では、はじめ一・四・六・九の日が市日だったが、正徳(しょうとく)二年(一七一二)、一の日が二の日にかえられた。このうち、四と九の日は大市(おおいち)だった。

 善光寺市はもともとどこで商いをしてもよい楽(らく)市だった。しかし、大門町は伝馬役(てんまやく)を負担する代償として、一二日のうち六日は大門町が独占することを領主に申し出て、延宝(えんぽう)八年(一六八〇)、その許可を得た。岩石町(がんぜきちょう)・横町・川原崎・東之門町の四町はこれに反対し、「小売の商人は、その日売った代銭で明日の商品を仕入れ、ようやく生計を立てているので、一市でも商売をしないと妻子どもが飢えてしまう。とくに四町の者は、市場商売で生活を立てているので、もとのとおり自由市にしてください」と訴えている。大門町の市日に塩を売っていたという理由で、大門町の市回り人に枡(ます)を取り上げられた横町の借屋人三右衛門は、「私は前々から横町長右衛門の前で塩を売っています。市十二斎、一日でも他へ行って売ったことはありません」と申し立てている。

 このように、善光寺町の定期市は最初北国街道沿いの川原崎・岩石町・横町・大門町で主に開かれていた。いろいろな商品が扱われていたが、主なものは薪・塩・穀物だった。薪は中世から市の主な取引物で、山手の村から持ち出し、里方の人びとが買っていた。栗田氏は戦国時代ごろ、市役として一駄ずつ徴収していた。善光寺も七月に節木(せちき)(善光寺の儀式用の薪)という名目で一駄ずつを優先的に買い入れていた。塩は生活必需品で、市へ出て薪・穀物を売った農民は第一に塩を買う。赤沼村(長野市長沼)では、一年に約四十両ほど塩を買っていた(安永十年明細帳)。村民二〇人につき約一両ほどである。

 越後から信州へ入る塩荷物は年間およそ二万五、六千駄、うち約二万駄は高田問屋から善光寺問屋へ送ったという(天保十四年大古関宿調)。また、明治八年(一八七五)の調査によると、一ヵ年に越後関山方面から長野へ送られる塩荷物は、約二万駄であった。

 定期市は全体の傾向としては衰え、常設店舗の店が商取引の中心となっていくが、麻・紙・木綿などの商品の生産が盛んになるにつれ、市の場所が移ったり、新しい市ができたりした。常設店は定期市と一部では共存しうるもので、この両者の助け合いは一部では明治以後もつづいている。天保(てんぽう)五年(一八三四)、善光寺町市では「当所は大市場と号して、近頃は越後国頸城(くびき)郡の村々から市立人が来て、諸穀・繰綿(くりわた)・魚・塩そのほかを商っている」と報告し、また、笹平・原町・鬼無里(きなさ)・栃原(とちはら)などに、新規の市がほしいままに立てられるので、善光寺町が衰えると訴えている。これらの場所は近世初期からの市であるが、一時衰退していたものが、商品生産が盛んになるにつれて盛り返してきたものであろう。

 天保六年には、大門町は「近頃市日でも在郷へ出かける小商人が多くなり、市立人が少くなる。また筵(むしろ)見世を本見世の前へ出すので、本見世がさびれる。筵見世は道の中央へ出すようにしたい」と訴えている。本見世と筵見世とでは利害の反する面のあるいっぽう、できるだけ多くの小商人を集め、市がにぎわうことによって本見世が潤うという面もあったわけである。市の開かれる場所も、散市(ちりいち)と称してだんだん広がってきた。新田には十二斎日ごとに木綿市が立つようになり、明和(めいわ)元年(一七六四)ごろには「在々のお百姓、年寄・女・こどもまで来て、市を立てている」というようになった。


図8 善光寺町の市の開かれた場所