万延(まんえん)元年(一八六〇)に寺子屋師匠が筆子に与えた手本のなかに、善光寺町の二三の町々・集落・小路等の特徴を一句ずつ書いたものがある。そのうち商業に関係したものはつぎのとおりである(『長野市史考』)。
大門町…毎日市をなし、にぎやかだ。
西・東町…薪・野菜持出し、売買が便利。
岩石町…四十物(あいもの)(海産物)沢山に入荷する。
桜小路…麻・紙の類、仕入元にて安価だ。
鐘鋳(かない)小路…菓子をいろいろ売っている。
まず大門町は善光寺町の親町で、旅籠(はたご)屋(約二十軒)はこの町の独占だった。地価も大門町がいちばん高く、有力商人が集まっていた。明治十九年(一八八六)の長野町宅地等級はつぎのとおりで、近世も変わらないだろう。
一等 大門町
二等 横町・後町
三等 元善町・西横町・新町・岩石町
大門町は毎日市をなすというから、現在の商店街に近くなっていただろう。
岩石町は越後からの入り口で海産物商が軒を並べていた。武田領時代からの有力商人水科(水品)氏もこの町に住み、明治以後も代議士などをつとめた。やはり代議士を出した矢島家もこの町の住人で明治末期には六〇戸の小さな町に代議士が二人いた。また、この町の海産物商林彦右衛門は、俳号を叢(くさむら)と号し、善光寺俳壇の中心人物であった。岩石町に富商が多く、文芸・娯楽も流行したことがうかがえる。