麻と紙

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麻紙商は桜小路とその町に平行している阿弥陀院町に多かった。嘉永(かえい)二年(一八四九)、桜小路に紙麻商は二二戸(一六六戸中)、阿弥陀院町に八戸(三九戸中)、西之門町に五戸(一九戸中)あった。これらの商人の約半分は問屋だった。天保(てんぽう)六年(一八三五)、善光寺町年寄らが幕府へ上申した口上書に、「紙は松代御領山中(さんちゅう)筋の紙船持主へ、初春から元手を貸し渡し、紙が出来たとき製品で受け取っています」と書いてある。また、弘化(こうか)五年(一八四八)、阿弥陀院町の麻屋、土屋孫左衛門が田野口(信更町)の小林家へ借金を申しこんだ書状に、「私の商売は紙漉(す)き人が冬にコウゾを買い入れるとき、その元手金を立て替えてやり、(中略)五月ごろに、ようやく立て替え金を紙で取り返します。麻紙買取り商人はたくさんおりますが、入用の節ばかり、または自分勝手の品ばかり買い取って行ってしまいますから、難渋の紙漉き人の助けにはなりません」と書いている。

 善光寺大地震の記録『むし倉日記』によると「志垣(しがき)・追通(おっかよう)・下祖山(しもそやま)・栃原(とちはら)などでは、毎年和紙を作り、善光寺から商人が来て買い集めて行くのが習いになっており、各村一年に七、八百両から千両の収入があるのだが、震災のため善光寺商人が買い出しに来なくて困っている。」という。つまり、善光寺町への紙の集荷の方法は、問屋が金を貸しつけて製品で受け取る「問屋制手工業」の場合と、買取り商人が買い集める方法と二つあった。

 天保六年、善光寺町年寄の寺社奉行への報告(御答摘書)によると、善光寺町の麻・紙関係の商人の数は、麻関係三九七人で、麻店が一五に対し、麻買い出しが一〇八、うみ草・畳糸うみ(両方とも主として女子の内職)が二七四ときわめて多数を占めている。紙も帳面屋四に対し、紙屋は一〇三人で大部分が買い出しなどの小商人だった。なお、明治三十四年(一九〇一)当時、長野市に二五あった商業組合のなかに麻商(組合員一五、組合長西之門町風間佐源次)と紙商(二五、同桜枝町吉岡荘治)がある。風間佐源治は梅木村(中条村)の出身で、文政(ぶんせい)二年(一八一九)に西之門で開業、畳糸・蚊帳(かや)を扱い、二代佐源治のときには、長野第一の麻商になっていた。