善光寺木綿

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善光寺地方の名産として善光寺木綿が有名だった。延宝(えんぽう)六年(一六七八)、横町に木綿問屋があり、市場でも取り引きされていた。享保(きょうほう)二十年(一七三五)、天領問御所(といごしょ)・荒木・栗田・千田の四ヵ村は、前々から田に木綿を栽培して年貢の初納金に充てていると訴えている(木綿不作につき減税願)。

 一八世紀後半には、新田囗(しんでんぐち)(妻科村新田組善光寺町の南の入り口)で木綿市が開かれ、農村部の人びとが自分で作った布をもってきて売った。「在々御百姓、年寄・女・こどもにいたるまで打ち交って」市を立てていた。買い手は善光寺町の木綿商人で、現金のかわりに端書(はがき)に何百何十文と書いて渡した。「大勢の市人が押し合ったりして混雑するので、小銭の取り引きは間違いやすい。端書に何百何十文と書いて渡し、商人の店で現金と引き換えるのが、お互いに便利で確実な方法だ」というのが、木綿商人の主張である。妻科村役元は、明和(めいわ)元年(一七六四)八月、新田口での代銭札による取り引きを禁じるという立札を立てた。善光寺木綿口買商人仲間九人はこれを不服として松代藩へ訴えた。善光寺当局は領内の木綿商人に、「新田口へ出ないで、寺領大門・後町のうちで買うように」と指示したが、結末は明らかではない。

 文政(ぶんせい)十二年(一八二九)、善光寺町周辺の三六ヵ村(寺領三ヵ村を含む)は、団結して善光寺町に対し、下肥(しもごえ)(人糞尿)値段引下げの交渉をおこない、二月にはいっせいに汲取拒否のストライキに入った。四月には仲裁者が入って和解したが、このように下肥が高くなったのは、田へ木綿や菜種などの換金作物を多く作るようになったからである(「善光寺町下肥出入」『長野市史考』所収)。


表10 善光寺町木綿・麻・紙商人

 善光寺木綿に対し、大きなダメージを与えたのは松代藩の産物統制であった。善光寺平は川北(かわきた)(犀(さい)川以北)といわれる善光寺町周辺が木綿の産地、川東(千曲川以東)といわれる高井・埴科は生糸の産地、更級郡はその中間だった。松代藩は文政九年、糸会所をつくって、のぼせ糸(絹糸)の統制を始めた。天保(てんぽう)四年(一八三三)にはそれを拡大して、産物会所をつくり、紬(つむぎ)・木綿・米などを統制するようになった。木綿や米を他領に出してはいけないということになると、善光寺町は松代領に囲まれているから、たちまちひどい不景気になって、生活にも困るものが続出した。天保六年、善光寺町はそのことを幕府へ出訴した。その訴状によると、善光寺町には木綿関係の商人が一九六六人、麻関係が三九七人、紙関係が一〇七人、合わせて二四七〇人いるという。これは家族を含めての数だろうが、過大に報告したらしい。一軒前の商人は木綿布屋の二一人だけで、大部分は綿繰り・糸くり・足袋さし子などの女子の内職である。訴訟の結果、善光寺領は松代領と同じ扱いになったらしいが、不利を免れなかった。

 慶応(けいおう)元年(一八六五)、松代領内二三ヵ所に産物会所がつくられ、商人たちは松代藩から鑑札を受けて商売した。繰綿(くりわた)(綿繰車で実をとった原料綿)と篠巻(しのまき)(綿を紐(ひも)状に巻いたもの、糸にする前の製品)を扱う会所と取り扱い量は慶応元年には表11のとおりだった。


表11 松代藩産物会所木綿改表(慶応元年)

 善光寺町近辺の会所が、松代藩全体の扱い量の大部分を占めている。ことに繰綿では吉田が四二パーセントを占め、後町・三輪を加えると、八四パーセントに達する。篠巻も南長池が全体の四四パーセント、三輪・吉田を加えると八七パーセントに達する。

 「木綿布仲間」という同業組合は、新町(しんまち)口と新田口に二組合あったが、天保十年当時の組合員は、善光寺領三三、三輪村一二、吉田二〇で、全員八〇人のうちの大部分を占める。善光寺町では東町の七を筆頭に、岩石・新町・後町が各五、三輪村・横山七など、善光寺町の東部に多かった。

 明治十年代の『町村誌』を集計すると、木綿の産出は上水内郡が三万三九五二貫(一二七トン)、更級郡が二万二四一七貫(八四トン)、埴科郡が七二九七貫(二七トン)だった。上水内郡で一〇〇〇貫(三・七五トン)以上を産出する村は、大豆島(五三〇〇)・中御所(二八九一)・稲葉(二五〇〇)・赤沼(二四八〇)・高田(二三三〇)・鶴賀(一五六〇)・浅野(一二七六)・腰(一二六五)・吉田(一一八九)で、村の大小があるのでいちがいにいえないが、長野町あたりに木綿産地が集中していたことがわかる。綿布・縞布計一〇〇〇反以上を産出する町村は稲葉(二四五〇反)・上駒沢(二二〇〇)・若里(一八〇五)・柳原(一六五〇)・高田(一五〇〇)・三才(一五〇〇)・長野(一三六八)・妻科(一三六五)・芋川(一二二八)・中御所(一二〇七)・吉田(一〇〇五)・南長池(一〇〇〇)などである。これも善光寺町周辺に集中している。芋川など、三水(さみず)・牟礼(むれ)地区は平野部から篠巻などを移入して、内職として布を作っている。製品はすべて長野町に集められる。ただし、木綿は明治二十年(一八八七)ころになると、海外から安い原料が入ってくるようになり、国産の木綿はまったく振るわなくなり、善光寺木綿も特産の地位を失ってしまった。