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善光寺平は油の生産が多く、鳥居峠を通って関東へ移出されることが多かったので、鳥居峠は油峠とも呼ばれたという。

 善光寺町でも近世初期から油が生産されていた。延宝(えんぽう)六年(一六七八)、大勧進代官高橋庄右衛門は、代官のかたわら、油屋もやっていた。木綿作がさかんになるにつれ、種油の生産もさかんになったらしい。木綿と菜種を二毛作することもあった。綿の実からも油がとれるが、製品としては菜種油(水油)のほうが上等であった。

 菜種や綿は主に西日本で生産されていたが、幕府は享保(きょうほう)十四年(一七二九)、関東諸代官に菜種栽培の奨励を命ずるなど、東国での増産政策を進めた。長野付近の、裾花川系の用水は漫性的な水不足に悩まされていたから、水田を木綿・菜種畑に変えるものも多かった。明治初年の菜種の生産高は川中島平で四七一九石(八五一立方びメートル)、旧町村別で生産の多い村は芹田(七五三石)・川中島(四八九)・御厨(みくりゃ)(四七一)・古牧(三七八)・綿内(三〇〇)・青木島(二五五)・西寺尾(二七〇)・東福寺(二五五)・安茂里(一九二)・小田切(一三五)・長沼(一三二)などだった。古牧・芹田地区で川中島平全体の約四分の一を生産している(「川中島平の油絞業と善光寺組油絞大工仲間」『市誌研究ながの』3号)。

 善光寺町付近には宝永(ほうえい)年間(一七〇四~一一)から善光寺組という油大工仲間(油しぼり職人組合)があった。その人数は、安永(あんえい)八年(一七七九)に二二人、文化(ぶんか)九年(一八一二)には四二人に増加した。文化九年当時の油大工の住所は古牧一七、長野一一、芹田五、三輪五などだった。油大工仲間は油屋仲間と相談して仕事をするものだった。善光寺組の元締めは、栗田村の倉石源左衛門で、近郷に聞こえた富豪であった。善光寺平にはこのほか、川中島組・中野組・小布施組・飯山組・川辺組・山手組などの油大工組合があった。

 嘉永(かえい)二年(一八四九)、権堂・栗田など天領、松代領の一六ヵ村は、「絞株をもっているもの(油大工)のほかへは菜種・荏(え)・木綿種を売ってはならない」という松代藩預かり所役所の通達を受けている。油屋でないものが油の原料を買い集め、値をつりあげて、高くなったところで絞油業に高く売り付けるので、菜種などの値がつりあがるというのがその理由である。油の需要が高まり、原料生産が追いつかなかった状態がうかがえる(前掲論文)。