文化(ぶんか)十年(一八一三)、善光寺平の薬種商の同業組合「神農講」の講員は一三人で、そのうち過半数の七人が善光寺商人だった。その得意先の人数は表12のとおりだった。得意先の主力は医師、つぎが寺、ついで富豪などで、いわば卸(おろ)し先らしい。善光寺町の仲間は小升屋与五兵衛(得意先一〇七)、同徳兵衛(同九五)、三好屋権右衛門(同三六)、同平右衛門(同三七)、押田屋仙蔵(同一九)、小升屋清八(同一〇)、島屋長八(同二〇)などである(県史近世⑧六三四)。
小升屋(西条)与五兵衛と徳兵衛は、このころあいついで町年寄をつとめている。徳兵衛は酒造りもおこなっていた。三好屋(上原)はもと北之門町庄屋で、北之門町が善光寺の境内になったので新町へ移ってきた。両三好は同族で、権右衛門(文路)が本家らしい。文路は俳人一茶の忠実な弟子であった。いちばん得意先の少ない小升屋(小林)清八(大門町)は、その後しだいに発展したらしく、同店の支配人宗助は抜け荷の唐薬種を新潟から買い入れて売りさばいたとして、天保(てんぽう)七年(一八三六)関東取締出役の取り調べを受けている(県史近世⑦一三三一)。
伊勢町の笠原十兵衛は、目薬屋で大勧進被官だった。子孫は市議会議長、代議士などをつとめており、現在も薬局を営み、市会議員も出している。当時、権堂の水茶屋でも薬を売っている家があった。寺社の門前に薬を売る店が多いのは、参拝者のなかに病気平癒を祈願するものの多いことからも当然であろう。善光寺には眼病の平癒を祈るものが多く、本堂西の親鸞聖人爪彫りの阿弥陀如来や、最勝院の須磨薬師石仏は、眼の利益(りやく)で知られている。