石油

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善光寺町郊外の浅川の伺去(しゃり)・真光寺(しんこうじ)から石油が出ることは、江戸時代から知られており、俳人一茶も灯油用に求めている。真光寺村(浅川)の新井藤左衛門が、越後の人の教示により、安政(あんせい)三年(一八五六)から本格的に掘りはじめた。明治三年ころには、藤左衛門の後継者藤八はじめ数人の石油業者ができた。

 明治四年八月、石坂周造が、長野石油会社を設立した。周造は桑名川村(飯山市)の農民の次男で、幕臣の株を買い、幕末には尊皇攘夷運動に活躍した。その妻は山岡鉄舟の妻の妹であった。石坂は政府から信越等五国の石油開発の許可を受け、長野県権令(ごんれい)立木兼善の後援で真光寺の石油の権利を買収し、まず前金として四五〇両を渡した。会社は石堂(いしどう)の苅萱(かるかや)堂に置かれ、明治八年、約一〇〇メートル南の中央通り西側に移った(のちの活動館、今のハウディ西武の地)。西洋風の建築で、三一個の釜を設備して石油精製を始めた。わが国最初の石油精製工場である。石坂は、まず資本金一〇万円の株式会社を設立しようとして出資者をつのったところ、好評でたちまち一五万円の金が集まった。出資者は東京の華族が多かったが、長野・須坂・松代・松本などの富豪もあった。従業員は二一人で仕事を始めたが、石油井の開発は進まず、産出額は会社設立直前の明治四年前半が七一六石(一二九立方メートル)であったのに、多額の投資をして、新しい機械力などを導入した同五年前半が一二四〇石余(約二二四立方メートル)で、あまり増えず、しかも、これを最高として産額は急激におちこんだ。明治十四年、石坂が手を引いてこの会社はつぶれてしまった。


写真47 長野石油会社 煙は石油精錬の煙。日本最初の石油精錬所。道は中央通り(明治11年刊『善光寺繁昌記』)


写真48 長野石油会社の社屋

 大正初期には、『信濃毎日新聞』の創始者の一人である岡本孝平が穿井(さくせい)を始めたがうまくいかなかった。ただ西沢原治の経営する西沢鉱山は昭和初期まで原油を掘っていた。最後まで残っていた石油井の原油は近くのガラスエ場の燃料に使用されたが、昭和四十二年(一九六七)、廃業した。

 しかし、この石油井だけは現存している。