明治三十年(一八九七)三月、長野電燈(でんとう)会社(小坂善之助社長)の茂菅(もすげ)発電所(出力六〇キロワット)が開設された。この年、電灯基数一一六六であったが、大正五年(一九一六)には四万五〇一五と急激にふえ、また、明治三十九年から動力の供給を始めた。明治三十七年、信濃電気株式会社(越寿三郎社長)が設立され、長野電燈・信濃電気ははげしく競争した。昭和十二年(一九三七)、越は製糸業に失敗してその事業を小坂にゆずったので、両社は合併して長野電気と改称した。
長野は工業はあまり振るわなかった。「長野の町の煙突は鉄道工場と銭湯のものだけだ」などといわれた。明治二十三年、内閣鉄道局長野出張所長野器械場という名の工場が、駅に接続した場所(おもに栗田分)にでき、同二十六年には長野工場と改称した。昭和十七年には長野工機部と改称、従業員ははじめ一二〇人、明治四十三年に約六〇〇人、昭和二十年には二三二九人に達した。長野市の唯一の大工場だった。明治四十年の主な工産物は煉瓦(れんが)・畳表・杏缶詰(あんずかんづめ)・菜種油などだった。
大正五年当時、従業員一〇人以上の工場をもつ会社は、つぎの一〇社(かっこ内は創業年)だけだった。長野瓦斯(大正元)、岡本煉瓦(明治四三)、柏与(かしよ)活版所(明治二四)、長野電燈(明治三二、長野新聞(明治三二)、吉野屋酒造場(寛永年間)、長野鉄工場(大正元)、信濃毎日新聞社(明治六)、信濃日日新聞社(大正五)、長野製綿(明治四〇)。一〇社のうち四社が印刷関係である。大正六年工場数一一、従業員数三〇三だったが、大正十五年(昭和元)には七二社、一七〇六人とかなり増えている。ただし、これは新市部を加えたためで、合併後の長野市は、昭和三年に工場数七六、従業員数二二二二人、生産高五五三万円だったのが、同一一年には工場数七五、従業員数一四八九人、生産高四〇七万円と減少している。