近世の善光寺町は、門前町としての機能のほか、市場町・宿場町としての機能を併せもっていたが、明治以後は、それに官庁都市の機能が加わり、消費都市の色彩が強くなった。
商店の業種は、明治四十年(一九〇七)の調査では、荒物(畳表・畳糸・蚕具)(五〇)・米穀(四八)・呉服太物(ふともの)(三三)・菓子(三一)・魚(三〇)・缶詰(二九)・旅館(二八)など、合計六三五となっている。麻(畳糸など)は長野市の特産として、市の経済に大きな影響を与えるものだったが、品質が粗悪であったりして、北海道・茨城県産等に押されそうになっだので、長野商工会議所は、明治三十四年、上水内郡長に、産地に吏員を派遣して監督してくれるよう依頼し、また、同年と明治三十七年に、長野市麻組合長に、品質をよくするよう注意している。明治四十四年、麻の年産額は三八万五五〇〇円であった。また杏も当市の特産品で、明治末期、缶詰・乾杏として年額二七万円、果実として二万円ほどを移出した。
商店数は大正三年(一九一四)には七一七と増加した。この年のベストテンは、旅館(五八)、菓子(四五)、料理(三九)、米穀(三四)、荒物(あらもの)(三一)、呉服太物(ふともの)(二六)、缶詰酒(二六)、魚(二五)、麻(二三)、薬種(二二)の順である。もちろん、商店の数だけではきめられないが、だいたいの傾向はわかる。荒物は主に畳表・畳糸で、麻とともに長野市西山中の特産物である。
昭和三年(一九二八)には、合併地区をのぞいて商店数が一一六六で約四〇パーセント増えている。このときのベストテンは、菓子・魚・洋物・旅館・米穀・料理・缶詰酒・織物・家具・青物の順になっている。
町別の商店数は、大正十三年には、大門町・石堂(いしどう)町・西後町(ごちょう)・桜枝町・権堂町・東町・新田町・西町・元善町・西ノ門町の順になっており、石堂のあたりにも商店が増えているが、まだまだ旧善光寺町の古い町の勢力の方が盛んである。ところが、昭和三年になると、石堂町・権堂町・千歳(ちとせ)町・大門町・元善町・問御所町・桜枝町・新田町・西後町・南県町の順になり、東町・西町・西之門町がベストテンからはずれて、千歳町・問御所町・南県町が新しく顔を出してくる。つまり旧善光寺町はあまり商店は増えず、長野駅に近い石堂・新田などが増え、また、権堂に商店がたくさんできてきたことがわかる。
大正期には、商店の種類も年とともに増え、蓄音機商・西洋料理店・ゴム靴商・写真機商・西洋洗濯・洋菓子などの新商売が目立つ。権堂・東町には卸(おろし)問屋が集まっている。卸売市場と創業年を拾ってみると、長野魚商(東町・大正二)、長野魚市場(東町・大正二)、吉田繭糸(吉田町・大正三)、長野繭糸(千歳町・大正八)、長野青果市場(千歳町・大正二)、長野物産市場(千歳町・大正二)、第二信濃青果(千歳町・大正十)などで、とくに千歳町に集中している。大正十四年ごろの長野市の法定宅地価格は、一位大門町、二位後町、三位元善町で、いずれも中央道路およびその延長上にあった。
大きなイベントとしては、明治四十一年九月二十日から十一月十日まで城山で開催された関東区府県連合一府十県共進会(博覧会)がある。入場者六六万人余におよび盛大であった。
消費都市の性格を反映して花街も栄えた。権堂は近世から花街として知られていたが、明治十一年に、その東に鶴賀遊郭ができた。娼妓(しょうぎ)数は、いつも県下一一ヵ所の遊郭中もっとも多く、たとえば明治三十九年には長野三九八人、上田一五五人、松本一〇九人だった。権堂を中心に芸妓も多く、昭和二年には二六九人いた。