明治九年(一八七六)六月、彰真社(しょうしんしゃ)という銀行類似の会社が長野にできた。発起人は佐久(さく)の早川重右衛門である。県為替方(かわせかた)(県金庫)をつとめ、金融業をおこなったが、明治二十二年五月に組織がえして信濃銀行(頭取小坂善之助)となり、引きつづき県為替方をつとめ、明治二十五年の調べでは、県下第一の銀行だった(昭和初期の信濃銀行とは別)。大正元年(一九一二)にも預金高では第六十三銀行についで県下第二位である。この銀行は、大正十二年に安田銀行に合併された。信濃銀行本店は大門町西側にあった。
長野県の私立銀行は、明治十三年に長野にできた長野銀行と長野貯蓄銀行がはじめてで、明治三十四年には、県下に一一三の銀行ができていた。また、士族が中心になって設立された国立銀行が、明治十年に第十九銀行(上田)、同十一年に第六十三銀行(松代)など五行できた。六十三銀行は経営不振になって稲荷山銀行(明治十四年創立)と合併、実質は稲荷山銀行だったが、名前は六十三銀行とし、長野支店(西町)を実質的な本店とした。この支店は明治二十八年に西後町に移り、大正十一年ここが本店になった。
昭和三年(一九二八)、政府のすすめで、長野実業銀行など九行が合併して信濃銀行になった。長野実業銀行は明治三十六年創立、大正十二年に長野貯蓄銀行を合併、頭取は小林久七(美濃屋)で本店は新町だった。信濃銀行は本店を上田に置き、小林久七ははじめ副頭取だったがのち頭取になった。預金・貸出金とも県下銀行中第一位だった。しかし、昭和四年の糸価暴落により、製糸業者への貸し付けの多くが不良債権になり、昭和五年十一月に預金支払い停止を発表した。頭取が長野の人で、長野支店は上田本店につぐ店舗で預金者も多く、大混乱になった。この事件で県下の小銀行はみな取り付けにあい、危機に追いこまれた。そこで六十三銀行は上田の第十九銀行(明治十年創業の国立第十九銀行の後身)と合併、八十二銀行になった。合併にともなって不良債権を切りすて、資本金を半分にした。このため「八十二銀行ではない。四十一銀行だ」などとひやかす人もいた。
戦時中、一県一行体制というのができ、昭和十八年に、当時長野県にあった長野貯蓄銀行など六つの銀行が八十二銀行に統合された。八十二銀行は、終戦後は、長野県に本店のある唯一の銀行として大発展した。昭和四十四年には、中御所町バスターミナル東側(長野工業高等学校あと)へ本店を新築して移転した。現在、所得額は県下企業中第一位、従業員約四〇〇〇、株式は第一部に上場している。
長野信用金庫は、長野庶民信用組合として大正十二年に設立された。昭和二十六年、長野信用金庫と改称、現在従業員約九百人。県下の信用金庫中第一位の規模で、第二位以下を大きく引き離している。