古代・中世の交通

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古代、信濃国府と越後国府を結ぶ東山道支道があり、錦織(にしごり)・麻績(おみ)・日理(わたり)・多古(たこ)・沼辺(ぬのべ)の駅があった。善光寺は日理駅と多古駅のあいたにある。日理は渡し場で、たぶん市村だろう。平安時代末には院御領市村と天台山領小市がそれぞれ荘園になっていた。小市・窪寺(久保寺)には古寺があり、古仏・古神像などが現存し、小市には時宗の寺跡もあって、古くから重要な街道であったことは明らかである。しかし、丹波島(たんばじま)から善光寺に直通する旧北国街道は、中御所では大道といわれ、信濃守護所跡と考えられる御所、後庁跡を示すらしい問御(といごしょ)所などがこの道に沿っているから、やはりこの道が本道だったのだろう。室町末ごろのようすを示すらしい善光寺参詣曼荼羅(まんだら)(小山善光寺蔵)は、この道筋を描いている。

 信濃へ入る道はすべて善光寺道と呼ばれたくらいで、北信濃を通る主な道は当然善光寺を通っていたが、武田領時代、海津(松代)城・長沼城ができると、これらの城を結ぶ道が重要視された。上杉氏もこの道筋を正規の道とし、善光寺を通ることを禁じた。慶長(けいちょう)七年(一六〇二)にも森忠政は、牟礼(むれ)から長沼へ通れと指示している。このように、たびたび善光寺通過を禁じているのは、善光寺を通る道が古来の道で、放任しておけば、みな善光寺を通ってしまい、長沼・松代の城下が衰微すると考えられたからであろう。


図9 信濃の駅(数字は駅馬)