宿には馬と人足(にんそく)を用意しておいて、公用で通る武士などの場合は、無料か公定価格で荷物などを運ぶ。中山道(なかせんどう)はおのおの駅馬(えきま)五〇匹、人足五〇人をいつも用意しておくことになっていたが、北国街道は二五匹、二五人だった。
駄賃(だちん)の公定価格は、ふつうの運賃の半分ぐらいで、善光寺からの公定の駄賃は、表14のとおりだった。表15は、文政(ぶんせい)十年(一八二七)に善光寺宿問屋小野家から出た馬の数である。本馬(ほんま)というのは、馬に四〇貫(一五〇キログラム)までの荷物をつけることで、このほかに人が乗って五貫目「一九キログラム)までの荷物をつけるのを軽尻(からじり)といった(軽尻に使われた馬数は本馬の半分くらい)。本馬・軽尻は、両方とも公用の荷物を無料か公定賃銭で運ぶもので、このほかに人が五貫目までの荷物を運ぶ人足というものもあった。
商人荷物は、公定賃銭でなく、その時々の適当な運賃を払って通る。商人荷物のなかには問屋を通らないものもあったから、この表にあるものだけが全部ではない。問屋を通る荷物は年間約六二〇〇~六三〇〇匹で、一日あたり二〇匹たらずである。そのうち三分の二くらいが丹波島(たんばじま)へ行く。
この表には、善光寺町問屋から出る荷物、または善光寺町を通過するとき問屋で積みかえる荷物だけで、善光寺町へ着く荷物は含まれない。新町(あらまち)宿へ行く馬は公用がおもで、商人荷物はその半分にすぎない。これは善光寺町の物資がおもに南の方へ出ていくことを示すように思われる。また同様に神代(かじろ)(豊野町)を通って飯山・越後方面へ出る荷物はわずかだが、長沼へはかなり出る。これはおもに大笹街道を通って関東へ送られる荷物である。じっさいに善光寺町を通る荷物は、問屋で扱う荷物の何倍もあった。
善光寺宿の馬は、大門(だいもん)町三八軒、横町七軒、西町二〇軒で、交互に馬を出すことになっていたが、じっさいは自分で馬をつれて出ていく人はほとんどなく、自分のかわりに出てくれる馬方をきめておいた。その馬方を役代(やくだい)といい、その馬方に一定の金を払うわけである。人足は西町・西之門町・阿弥陀院町・後町(ごちょう)・東町・東之門町・伊勢町の九三軒でつとめたが、これも自分で人足に出る人はほとんどなく、かわりに人を雇って出した。その賃金は、はじめ年二分くらいだったが、天保ころから一両以上になった。大名の通行などでおおぜいの人足がいるときは、寺領の平柴(ひらしば)・七瀬(ななせ)・箱清水(はこしみず)の三ヵ村から人足を出させた。加賀一〇〇万石の前田侯の通行のときは、人足一二五人、馬一二五匹が必要なので、そのときに限り、松代藩から馬を借りる習慣になっていた。