宿をめぐる争い

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写真51 善光寺町図 大門町(宿)がことにくわしく、境内入り口に「宿坊諸国郡割所」がある

善光寺宿は、大門町が中心であった。宿屋も大門町の独占だった。大門町の宿屋にとって、競争相手が三つあった。その一つは善光寺の院坊、一つは東之門町の木賃宿(きちんやど)、一つは権堂の水茶屋(みずちゃや)だった。院坊はそれぞれ地盤をもっていて、どこの国の何郡の人はどの院で泊まるというようなことが一応きまっていた。ところが大門町の方では、院坊は宿引きを出して、何の関係もない客をひっぱりこむといって文句(もんく)をつけ、訴訟を起こしたりした。

 宿屋にも院坊にもそれぞれいい分かあった。宿(しゅく)のいい分によると、「大門(だいもん)から境内(けいだい)に入るところと、東之門から境内に入るところに番(ばん)屋を建て幕を打ちまわして、旅人を呼びとめては院坊に泊まることをすすめ、まったく宿はやりきれない」という。院坊の方では、「宿屋が途中で院坊の悪口をいって院坊に泊まるはずの客までとってしまう」などといっている。寛政(かんせい)三年(一七九一)、善光寺の開帳(かいちょう)があり、参詣者が多かったため、東之門町の木賃宿で旅人を多く宿泊させたので、大門町が訴え、東之門の木賃宿二六軒は、巡礼体(じゅんれいてい)のもの以外は宿泊させないという誓約書を、毎年大門町へさしだすことになり、明治六年(一八七三)まで、毎年誓約書を出している。

 権堂は江戸時代の中ごろからだんだんにぎやかになり、一九世紀前半(天保(てんぽう)ごろ)には、三〇軒以上の水茶屋(遊女屋)ができ、二四〇人くらいの女性を雇っておくようになった。水茶屋は旅館と同じように旅人を泊めたから、大門町は困って、権堂村の水茶屋をやめさせてくれるようにと幕府へ訴えた。この争いはたいへん長くつづき、大騒ぎをしたが、嘉永(かえい)三年(一八五〇)に、ようやく和解し、「権堂から宿へ毎年三〇両ずつ出す。水茶屋ではいっさい旅人や商人を宿泊させない」というような条件で、水茶屋はそのままつづけられるようになった。明治に入ると宿もなくなり、宿屋の多かった大門町も、ふつうの商店街になった。


図10 近世の善光寺宿付近の街道と宿