明治元年(一八六八)六月、宿駅の問屋・役人を廃し、伝馬(てんま)所を置くことになった。ついで同四年に各駅に陸運会社を置くことになり、長野県では同五年五月から陸運会社が営業を始めた。いっぽう、同月に近世の中牛馬(ちゅうぎゅうば)仲間の組織を利用した中牛馬会社ができた。会社は長野県下で長野・小諸(こもろ)・上田・和田、筑摩県下七ヵ所などに設けられ、それぞれ独立した小会社で、明治九年ごろまでに連合組織を強めた。その中心は長野中牛馬会社の中沢与左衛門である。中沢家は善光寺町の町年寄の家であった。陸運会社の連合体、陸運元会社は明治八年、内国通運会社と改め、政府主導の会社として中牛馬会社と競合した。中沢の主導する中牛馬会社は明治十一年の明治天皇北陸御巡幸にあたり、その貨物輸送などをおこなって成績を上げた。
鉄道開通により、駄馬・人力による陸上長距離輸送は決定的打撃を受けた。それを見越し、中牛馬会社は明治十九年に分裂してしまった。