大正時代の道路改修の最大の事業は中央道路の改修であった。中央道路の名称は大正八年十月、国道改修実行委員二〇人が、牧野市長をたずね、改修促進の陳情をしたときに始まる。以前は別にきまった名はなく、大通りと呼ぶことがある程度だった。改修前は道幅も狭く、狭いところでは荷車が二台ならぶことができなかった。いちばん広い大門町北部で一〇メートル、いちばん狭い島の寮付近は約四メートルしかなかった。この改修の声が出ても、関係町民のなかには、いまとなっては不可能なことだというものがたくさんあった。しかし、沿道の有力者が集まり、「ただちに実現はむずかしくても、近い将来に必ず道路拡張を実現しよう」と相談し、同年十月委員会をもつまでになった。
はじめは八間幅(約一五メートル)にする計画で、この案が大正十年の市議会に提案された。そして工費八九万五〇〇〇円とし、半額の県費補助を申請した。しかし、ときの岡田忠彦知事は、八間では悔いを後日に残すものとして、一〇間幅(約一八メートル)を勧奨し、これにしたがうことになった。そして工費一三五万円(うち半額県費補助)とし、大正十一年から工事を始めた。道路費は約二十一万円で、費用の大部分は建物移転と土地買収費だった。当時の市の総予算は、七三万円だったから、この工事は市の予算の約二年分をついやす大工事だったわけである。区間は、石堂(いしどう)町から大門町までの一四四五メートル、予定どおり大正十三年十一月に工事は完了した。
大正十四年の長野市の地価(一〇〇坪=三三〇平方メートルあたり各地区の最高)は大門町の一七〇〇円、後町(ごちょう)一三五〇円、三輪地区一八〇円、芹田・吉田地区が各一七〇円だったから、中央通りの地価が郊外よりはるかに高かったことがわかる。