昭和前期の市街の整備

135 ~ 135

昭和初年の不景気のなかでも、市街の整備はしだいにすすんだ。昭和六年(一九三一)に中央通りが舗装された・長野市でのアスファルト舗装の始まりである。昭和九年に相生町新地線(権堂町通り)が舗装されたが、これが市道舗装のはじめである。

 丹波島(たんばじま)から県庁前へ出、さらに昭和通りに通じる市の代表的な道路、国道一〇号(現在おもに国道一一七号・一九号)は、丹波島橋から県庁までの二二九五メートルが昭和十年にできた。同年、この道につなげるため南県(あがた)町新田線(昭和通り)をつくった。昭和初期は失業者が多かったので、失業応急事業として、善光寺裏山に展望道路をつくることになり、昭和八年に竣工した。この工事による救済人員は延べ六万四〇〇〇人だった。完成後も、はじめは悪路で展望水路などと悪口をいわれたが、現在は、利用価値が高い。

 長野一ノ鳥居線(七曲り)は、旧戸隠参道で、塩沢から荒安(あらやす)まではいわゆる七曲りを中心とする難路であるが、昭和八年から翌年にかけて、これを失業応急事業として改修した。長野―戸隠線によって、西長野から茂菅(もすげ)へ通じる「作り道」は、明治三十五年(一九〇二)ごろ、断崖(だんがい)絶壁をけずってつくった道で、たいへんな難所である。この悪路の改修工事も、昭和八年に完成した(現在国道四〇六号)。この結果、裾花(すそばな)峡谷ヘバスが入るようになり、たいへん便利になったが、この谷の入り口にあたる谷口の町桜枝町は、バスが素通りしてしまうようになって、かえって衰えた。