電鉄

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大正九年(一九二〇)、神津藤平によって河東(かとう)鉄道株式会社が設立された。神津は佐久郡志賀(現佐久市)の豪農の出身である。大正十四年までに屋代―木島間が開通、昭和二年に支線山ノ内線が完成した。

 大正十二年に吉田町が長野に合併したときの条件に、須坂―長野間に鉄道を敷くということがあったので、長野市長丸山弁三郎は神津をおとずれて、この鉄道を敷設することを依頼した。神津はこの年、長野電気鉄道株式会社を設立(資本金は二〇〇万円)、翌年に工事を始めた。市では一〇年間に総額二〇万円(建設費の一割)の補助を与えた。大正十五年六月、権堂―須坂間が開通、この年、河東鉄道と長野電気鉄道が合併して長野電鉄株式会社と改称、神津藤平が社長になった。昭和三年六月に権堂―長野間が開通、現在の線路の全部が完成した。

 長野電鉄の開通で長野と川東地方(高井地方)との連絡がよくなり、この地方も長野市の商圏にくりこまれるようになって、長野市の発展を助けた。この鉄道の長野駅―善光寺下駅間は昭和五十六年に地下鉄となり、その上に長野大通りができた。