バス

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長野市におけるバス事業の先駆者は宇都宮信衛で、明治三十二年(一八九九)四月十四日、淀ヶ橋から須坂・中野・森宮野原などへ乗合馬車の路線を開いていたが、時勢を察して、大正十年(一九二一)、これを乗合自動車にきりかえてこの路線を経営した。また、宇都宮がハイヤーの第一号を買い入れたのは、大正九年である。さらに大正十四年、川中島自動車株式会社(本社川中島、営業所南県町)を創業した。当時、自動車数二三台だった。なお、創業当時の路線は長野―上山田間、篠ノ井―新町間、稲荷山―新町間、川中島―笹平間で、運転回数一日五、六回、長野―上山田間の運賃は六五銭ぐらいだった。昭和三年(一九二八)には長野―真島―篠ノ井線、川中島―真島線が開かれた。川中島自動車は、その後、大町線(昭和九)、鬼無里(きなき)線(同)などの路線を買収した。

 明治四十四年、中野市に平穏(ひらお)自動車株式会社ができ、これが宇都宮信衛の手に移ったが、神津藤平はこれを買収し、昭和二年に長野温泉自動車株式会社を創立した。長野―須坂間など、主として長野電鉄沿線を路線にしていた。このほか、バス会社としては淀ヶ橋の宇都宮乗用自動車商会が市内にバス網をもち、南県(あがた)町に北信自動車株式会社があって松代への路線をもっていた。

 昭和十三年四月に陸上交通事業調整法という法律ができ、私鉄の自動車営業を許したので、長野電鉄は、もともと同系であった長野温泉自動車と沿線一九の自動車会社を昭和十五年に吸収合併した。また、川中島自動車は同じ年に宇都宮乗用自動車・北信自動車・八幡自動車・畑山自動車を合併し、昭和十九年には千曲自動車から上田―篠ノ井間の路線をゆずりうけて長野―上田間の路線を完成した。しかし、戦争がはげしくなると、運転手も徴用され、ガソリンの配給もなくなり、木炭車がかろうじて動いているにすぎないことになった。終戦後営業を再開したときは、長野電鉄は三九台、川中島自動車はわずか五台しかなかった。