①寛永(かんえい)十九年(一六四二)五月九日、西町から出火。本堂焼失。慶安(けいあん)三年(一六五〇)仮堂、寛文(かんぶん)六年(一六六六)如来堂できる。
②元禄(げんろく)元年(一六八八) 五月十八日、東之門町から出火。同町一円、寛慶寺、横町七、八軒焼失。
③元禄十三年(一七〇〇) 七月二十二日、下堀小路から出火。門前町から寺内へ類焼、本堂、再建用の材木を焼失。
④元禄十六年(一七〇三) 九月二十三日、横町から出火。同町半分・岩石町・新町・伊勢町・東之門町・法然堂町焼失。町の東北部の大部分を失う。この部分は善光寺大地震でも被害のもっとも大きかった地域。
⑤宝永(ほうえい)二年(一七〇五) 五月一日夜半、西之門町から出火。西風で大本願・三寺中・東之門町・伊勢町・岩石町・新町焼失。わずか三年間に同じ町が二回も全焼している。完成間近の本堂は、新敷地のため無事。
⑥正徳(しょうとく)三年(一七一三) 十一月九日、三八〇軒焼失。大門町から出火、北風で東町・権堂類焼、康楽寺焼失。
⑦正徳五年(一七一五) 六月十日、午前二時ごろ桜小路出火。桜小路(二五軒)、西之門町(二七軒)、横沢町(一〇軒)、衆徒(九軒)など七一軒焼失。
⑧享保(きょうほう)十五年(一七三〇) 三月十九日、新田半町焼失。
⑨元文(げんぶん)二年(一七三七) 六月二日夜半、西町西側出火。五四一軒焼失。西風で大門・東・横・岩石・東之門・伊勢・新・法然堂の諸町、衆徒七院焼失。焼死三人。
⑩宝暦(ほうれき)元年(一七五一) 桜屋火事。一四七八軒、全町ほとんど焼失。西北風のはげしい二月十九日正午ごろ、桜小路・西之門角の桜屋から出火、横沢町周辺を残してほとんど全町を焼失した。
⑪宝暦二年(一七五二) 六月十七日、西後町(ごちょう)から出火、裏屋とも四〇軒余焼失。前年の火事につづき、二年間に二度目。
⑫宝暦四年(一七五四) 六月二日、横町から出火。横町・岩石町・新町・伊勢町など一一九軒焼失。
⑬宝暦十年(一七六〇) 四二七軒焼失。四月二十二日、東町分下堀小路から出火。東町・横町・大門町・西町・天神宮町・西之門町など焼失。西之門町の両側二軒が塗屋だったので、ここで焼けとどまっだ。善光寺はこの結果、塗屋を奨励、塗屋を建てるものへは、一〇両ずつ貸与した。
⑭宝暦十一年(一七六一) 二月二十八日、東町康楽寺から出火、北東の風はげしく、権堂・田町・大門裏・後町・問御所・西後町十念寺、計五七五軒焼失。
⑮宝暦十三年(一七六三) 五月二十二日、大門町裏から出火、西町三五軒焼失。
⑯安永(あんえい)二年(一七七三) 四月七日、西之門町から出火。北風はげしく、西之門町(六三軒)、桜小路(七三軒)、阿弥陀院町(五一軒)、立町(八二軒)、西方寺など二八三軒焼失。
⑰享和(きょうわ)元年(一八〇一) 五月二十四日、横沢町から出火。一八一軒焼失。
⑱文化(ぶんか)九年(一八一二) 十月二十三日、西町から出火。西町・天神宮町七三軒類焼。領主善光寺から籾(もみ)一〇〇俵を二〇七戸へ分与。
⑲弘化(こうか)四年(一八四七) 三月二十四日夜、善光寺大地震。門前町全焼。焼失約二三〇〇軒。詳しくは次項で述べる。
⑳嘉永(かえい)五年(一八五二) 四月十四日夜、西後町から出火。東後町・権堂に延焼、一〇〇軒以上焼失。
寛永十九年から慶応(けいおう)三年(一八六七)まで二二六年間に三〇戸以上焼失の大火が一九回起こっている。このうち、町内ほとんど全焼の大火は、宝暦元年二月十九日の桜屋火事(一四七八軒)と、弘化四年の善光寺大地震である。これにつづき、町の三分の一から半ばを焼いた大火は元禄十六年、宝永二年、正徳三年、享保十五年、宝暦十年、同十一年、安永二年などに起こっている。およそ三〇年に一回は大火に見舞われたことになる。宝暦年間(一七五一~六四)は、一三年間に六回も大火が起きている。その後大火が減少したのは、塗屋が多くなったためともいわれる。
大火が起こった月は、三月(三回)、四月(三回)、五月(五回)、六月(四回)で、この四ヵ月で四分の三を占める。二月・七月・九月・十月・十一月は各一回、八月・十二月・一月は一回も大火は起きていない。
焼ける回数にもかなりの違いがある。岩石町は六回も全焼しているのに、桜小路は二回、横沢町は一回だけ、桜屋火事でも、火元が桜小路角だったのに、桜小路は焼けなかった。明治二十四年(一八九一)にも二回大火があった。五月四日、東之門町から出火、伊勢町の大部分、岩石町・元善町の一部、五九戸、約二〇〇棟を焼いた。一ヵ月もたたぬ六月二日、西之門町から出火、桜枝町(四戸)、上西之門町(三戸)・下西之門町(二五戸)・元善町(一三二戸)・東之門町(六一戸)・長野小学校・仁王門・大本願・山内寺院の大部分など二六七戸、棟数五〇〇以上を焼いた。伊勢町の笠原十兵衛家はこの年二回焼け出され、先祖伝来の古文書を失ったという。その後は長野には大火は起こっていない。
長野の大火は、たいてい北風または北西風のはげしいときに起こる。したがって、町の北西端の横沢町や桜小路は、類焼の危険が比較的少ない。本堂も門前町から離して北部に建てられているので、善光寺大地震はじめ数回もの大火の難を逃れた。
現本堂再建以前の善光寺境内は元善町の地にあり、その跡にできた堂庭(どうにわ)(元善町)とその入口の仁王門は、弘化四年と明治二十四年と二度火災にあっており、本堂が元の場所にあればそのたびに焼失したであろう。元禄の再建のおり、本堂の位置を旧北之門町跡の現在地へ移しだのは、賢明な処置であった。