火災の頻発に対し、善光寺当局もいろいろな手を打った。宝暦(ほうれき)元年(一七五一)には全町を焼く桜屋火事があり、その後も火事があいついだ。そこで、善光寺は、宝暦十年、各町の五人組ごとに水籠(かご)などの用意をさせ、「欠付(かけつけ)とび」を決めて報告させた。同年二月の東町の報告によると、同町の一五の組には水籠六六、とび六丁、手箕一二、はしご二丁が用意され、「欠付とび」は一人で、大工付が二人、とび三人、手鎌持参七人だった(県史近世⑦一二四一)。
この規定は安永(あんえい)十年(一七八一)に改定され、西町は二五人が「札火消」と決められた。割り当ては小水籠一五人、長柄杓二人、斧一人、水箒(ほうき)三人、手鎌四人である。この二五人は他町の火事に必ず出動せねばならぬ人員である。ほかに組頭が人足五人(長鳶口(とびくち)二本・長鎌二本・手明一人)を連れて庄屋の纒(まとい)下で働く。組頭は大水籠の側にいて水札の世話をする。町々では大水籠一つ、梯子(はしご)二挺(ちょう)、ねこ一枚、釣瓶(つるべ)二つ、鉄槌(つち)一、五寸釘一五本、縄一把(わ)を持って出る。家々では水桶を一つずつ用意しておき、火事場へ駆けつけ、大水籠へ打ちこみ、札を差し上げる。家の前にも一桶ずつ置いておく。消口の争いをしてはいけない。銘々の取りかかっている場所へ、他領のものが加わっても協力しておこなうなどが指示されている。
弘化(こうか)三年(一八四六)五月の桜小路の報告では、纒高張(まといたかはり)・纒破連(ばれん)・釣瓶各一人。水籠七人、駆付五人、役元付四人、町年寄付三人、計二二人の消防要員が報告されている。全町では、二〇〇人ぐらいの要員が一応は決まっていたらしいが、弘化四年の大地震ではまったく役に立たなかった。
宝暦十年四月の大火のあと、善光寺では、家を再建するものはなるべく塗屋(ぬりや)を建てよと命じ、塗屋にしたものには一〇両ずつ貸与することにした。これは四月の大火のさい、西之門町に塗屋が両側にあったため、その南隣で火を消し止められたのを見て、申し渡したのだという。