弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日(太陽暦五月八日)夜、亥(い)の刻(午後九時ごろ)、上越から北信にかけて、はげしい地震が起こった。震源地は長野市街地北方、東経一三八度二分、北緯三六度七分と推定されている(『長野県における被害地震史料集』)。激震の東北限は新潟県新井市長沢、妙高村大谷、飯山市柳新田・中曽根などであり、南限は更埴市八幡、図上距離は約五〇キロメートルである。いわゆる直下型の地震で、「一時にドンと大きな音がして家がつぶれた」(『虫倉日記』)という状態だった。全壊は約二万戸、死者は八三〇四人(うち流死七七人)だった。被害は善光寺町がもっともはなはだしく、寺領だけで二二六九人(うち旅人一〇二九人)で、この大地震の全死者のおよそ二七パーセントを占めた。それでこの地震を世に善光寺大地震という。
当時、善光寺は開帳の最中で諸国から多数の参詣者が入りこんでいた。三月二十四日は晴天で暖かく、夜になっても参詣大はひきもきらず、本堂内はおこもりをする善男善女で充満し、境内の商人はいずれも営業をつづけていた。善光寺町は町の主要部分が傾斜面にあって不安定な状態にあったため、第一震で多数の家が崩壊した。風は西南であり、出火場所はおもに町の北部だったからなかなか南へは延焼してこなかった。翌二十五日の昼ごろ、鐘鋳堰(かないせぎ)を越えて、後町(ごちょう)・権堂へ延焼してきた。
松代藩主真田幸貫(ゆきつら)は善光寺町の火事が二十五日朝になっても消えないのを見て、救援を命じた。しかし、城中に人数少なく、仕方なく使者に道橋方(みちはしかた)の印鑑をもたせ、途中の村々の人足をかり集めて行かせることにした。使者はようやく昼ごろ出発したが、途中の人足を集めることができず、具体的な援助はできなかった。
越後椎谷(しいや)藩六川陣屋(小布施町)の代官寺島善兵衛は、二十五日その所領問御所へ来て消火の指揮をした。問御所村北境で火をくい止めようとし、人足を指揮して権堂・後町の人家を打ちこわしはしめた。人びとは他領の人家に手をつけることはあとに問題を残すといって止めたが、寺島は責任は自分が負うからといって断固として作業を進めた。このため、問御所村以南は類焼を免れた。火は焼くべきものを焼き尽くして、二十六日昼ごろようやく鎮火した。寺領善光寺町は横沢町(大方潰れ)と西方寺付近を残して完全に丸焼けになった。しかし寺領つづきの問御所村・新田組などは潰(つぶ)れ家はあったが焼けず、町つづきの農村部は被害が少なかった。
表16は善光寺町とその周辺町つづきの村の死者の調査である(人口は文化五年)。もっとも死者の多かった大門町は、実に四割近い死者を出している。岩石町・新町(伊勢町を含む)・横町がいずれも三割以上の死者を出している。「焼失地図」の黒く塗った部分で、大門町とその東北のごく限られた部分である。この地域は、すべて傾斜地で、地震と同時に大部分の建物が倒懐したのだろう。他の町々もみな一〇パーセント以上の死者を出しているが、横沢町だけは五パーセントとやや低い。この町は家屋の四〇パーセントが全壊したが、全滅状態の町よりいくらか被害が軽かったらしい。このため、横沢町は五月三日までほぼ毎日、二〇人の人足を課せられた。
問御所村は後町の南につづく街村で、全壊は二六パーセントだったが、焼失を免れ、死者は一人だけだった。善光寺町の西に接する妻科村は北国街道沿いの枝村後町で焼失二七戸の被害があったが、本郷では死者は五人、うち三人は善光寺町、一人は山で死んでおり、村内での死者は一人だけ、石堂組の南につづく栗田村は全壊なし、死者五人は全部善光寺町での死者だった。茂菅(もすげ)は半潰(つぶ)れ一軒だけで、死者はなかった。
地震勃発(ぼっぱつ)と同時に犀(さい)川の右岸にある岩倉山(更級郡)が崩壊し、犀川をせき止め、湛水(たんすい)二〇日におよんだ。川筋の人びとは避難し、丹波島(たんばじま)宿も無人になって、人馬の継ぎ立てが不能におちいった。この湛水は四月十三日に決壊して下流に大洪水を引き起こした。善光寺町にはこの洪水の被害はなかった。