地震に対する領主の施策

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善光寺は大勧進が大破、大本願はじめ院坊は全焼した。地震の夜、御本尊・前立本尊・御印文などを横山窪(地蔵畑)へ移し、ここに仮堂を建て、五月十六日朝、万善堂へ移すまで五三日間、ここに安置された。

 四月十四日には、①家作は届け出におよばず、自由にしていい。②焼銭も通用すること、の二ヵ条を申しわたし、ついで五月、大工などの職人の手間を、七日一分に公定した。

 四月二十六日、松代藩から見舞いとして白米三〇俵などが届いた。二十八日、問御所の穀商久保田新兵衛が難民救済のため、安穀売りをした。銭のないもののために、善光寺は本堂脇で粥(かゆ)を施した。

 五月九日、大本願は一軒につき玄米三斗六升入一俵ずつを西方寺で貸与し、五月二十一日には、大勧進から領民一人ずつ五升の米が下付された。六月に江戸の富商一五人から二四〇両余の義援金が贈られてきた。これは難儀人一七五一軒へ、一軒前銀八匁二分二厘(約八九〇文)ずつ割り当てられた。

 十月には、当年分祠堂金(しどうきん)(善光寺から領民への貸付け金)利子免除、来年五分、明後年七分(平年一割)という布告が出た。

 大勧進は四月十一日、柏原の中村徳左衛門へ使者を遣わして救米の手配を依頼した。徳左衛門は柏原第一の地主で、塩・穀物などの中継問屋をしていた。蔵六棟がつぶれるなど大被害を受けていたが、すぐに関川の米屋を呼び、現金三〇両を渡して米の手配を頼んだ。二十日には大勧進の使者が梨一三個をもって謝礼に訪れている。

 松代藩はじめ被害にあった藩や代官所は、何回も幕府に被害を報告した。同時に金を乞うた。四月二十日、幕府は真田信濃守(松代藩主)に一万両を、堀長門守(須坂藩主)に五〇〇両をそれぞれ貸与した。幕府の公式記録『続徳川実紀』に善光寺地震のことが出てくる最初である。善光寺は幕府から三〇〇〇両、松代藩から二〇〇〇両を無利子で借用した。

 各領主の領民に対する手当には、かなり大きな差異があった。全潰(つぶ)れ一戸につき、椎谷藩は金五両、須坂藩は二両二分二朱、中野代官所は一両、松代藩は三分、飯山藩は一分をそれぞれ支給、善光寺領は支給がなかった。松代藩家老河原も「潰れ家が少なかったせいもあるが、御高の割には多分の御手あてを下され、食料の手当もあつく、まことに評判がいい」(『虫倉日記』)と椎谷藩が好評だったことを伝えている。前記の寺島善兵衛の防火の手柄話なども、このような好評のなかから生まれてきたのだろう。ただ、被害の大きかった領地ほど、救助の手がおよびにくかったことはやむをえぬであろう。

 松代藩の郡奉行山寺常山は四月二十三日、山中(さんちゅう)へ視察に出かけるにあたり、更級郡小森村の弟子大久保董斎(とうさい)方に立ち寄り、「山中は人の心が荒れていて気が重い」と語っている。