善光寺へは鎌倉時代初期から重源(ちょうげん)・覚忠・親鸞(しんらん)・一遍など、著名な僧が参詣、元亨(げんこう)三年(一三二三)には浄土宗名越(なごえ)派の月形房明心(みょうしん)が大門町に談義所という教室を開くなど文化的雰囲気(ふんいき)があった。
将軍源実朝の近臣だった信生(しんしょう)(俗名塩谷朝業(しおやともなり))は、元仁(げんにん)二年(一二二五)三月下旬から七月まで善光寺に滞在、同行の僧や流人伊賀光宗(いがみつむね)と歌を詠みかわしたりした(『信生法師集』)。後深草院の后(きさき)だった二条(久我雅忠女)は正応(しょうおう)三年(一二九〇)二月、多勢の女性の一行とともに善光寺に参詣、高岡(和田)石見(いわみ)入道の家に半年近く滞在した。この入道はつねに歌を詠み、管弦などして遊ぶ風流者で、その家も由緒ありげで、田舎(いなか)には過ぎた家である。和田は平氏で、たぶん都にいたこともあり、その風俗をもちこんだのだろう。『一遍上人絵伝』(宗俊本)には、善光寺の場面に牛車の描かれているものがあり、また『大塔物語』には、守護の善光寺入りを見物する人びとのうち、身分ある人は簾(すだれ)ごし(たぶん牛車のなかから)見物したとあるから、都の風俗も一部はもちこまれただろう。