時宗と文学

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善光寺には時衆(時宗の僧)の僧団があった。『善光寺縁起』にはつぎのような話が出ている。昔、念仏堂に四八人の時衆がいた。ところが、風俗をみだしたので、権別当(ごんべつとう)が時衆を追放し、鎌倉極楽寺から律僧をつれて来て、きびしい戒律を守らせた。ところが、如来が「私は悪人を救いたいのだ」とお告げになったので、時衆を呼び返したという。この話は時衆につごうよくできており、時衆が書いたのだろう。

 『平家物語』には、北信濃での横田河原の合戦を、ごく簡単に書いてある本もあり、くわしく書いてある本もある。そのくわしい本は、善光寺の時衆が筆を加えたのだろうといわれる。また『大塔物語』は、出てくる人名・地名が精細で、しかも時衆の活躍がよく書かれているから、善光寺の時衆か、それに近い人びとの筆であろう。

 室町時代には『善光寺縁起』が何種類も書かれた。ことに三巻の絵入りの本はよく普及し、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)がそれを後土御門(ごつちみかど)天皇に見せたところ、天皇は大いに興をそそられ、実隆にそれを書写させた。この縁起の主な部分は善光寺の僧が書いたのだろう。このように、善光寺には文筆の才のある僧たちがいたらしい。室町時代の説話・物語には善光寺に関係あるものがいくつもあり、そのなかには、善光寺の僧が書いたかと思われるものがある。

 『師門(もろかど)物語』は、国司に殺されかかった陸奥(むつ)の平師門(将門の子)と妻の浄瑠璃(じょうるり)が善光寺で再会、栗田・井上・高梨・村上ら国人(こくじん)の援助を得て国司を攻めほろぼすという筋である。『短冊の縁』も似たような節で、常陸(ひたち)国司に愛人を奪われそうになった花輪(はなわ)家定か、善光寺如来と信濃国人の援護で国司をほろぼし、愛人乙姫と結ばれる。都から下った国司が悪者、信濃国人は善光寺如来の後押しという筋は、たぶん善光寺の僧の発想であろう。

 善光寺信仰は勧進(かいじん)とか本願(ほんがん)とか呼ばれる回国の僧尼によって広められた面が多いと考えられ、「虎御前」が主要人物の一人である『曽我物語』の成立にも、善光寺の僧尼が関係しているかもしれない。謡曲の「柏崎」「土車(つちぐるま)」などは善光寺の内陣が舞台になっている。