善光寺俳壇

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善光寺町は北信濃の俳諧(はいかい)の中心地だった。享保(きょうほう)六年(一七二一)、蕉門の沢露川(さわろせん)が善光寺に遊び、招山・未格(岡田)ら五人の俳人とともに姨捨(おばすて)山の月を賞した。招山は大勧進代官山崎藤兵衛で、元禄(げんろく)七年(一六九四)、京都で善光寺出開帳がおこなわれたとき、芭蕉門下の人びとと交遊した。

 芭蕉の高弟各務支考(かがみしこう)が招山を訪ねて、

  更科の月をどう鳴くほととぎす

と問いかけると、招山が

  あつめて見せむ卯の花の雪

と答えたので、支考はその力量に驚いて宿も乞わずに立ち去ったという(『水篶苅(みすずかり)』)。

 西之門町の藤井逸堂は兎柳軒(とりゅうけん)と称し、伊勢の蕉門の岩田涼菟(りょうと)が善光寺に遊んだとき、ともに連句を巻いた。

 猿山は戸谷吉九郎、大門町で旅館を営み、伊丹(いたみ)の鬼貫(おにつら)と文をかわしていた。大坂へ行って、小西来山の家に泊まり、外出して偶然道で鬼貫に会い、すれちがいざま、鬼貫は「お前は信濃の猿ではないか」と聞いた。猿山も、左右の指を額にたて、「お前は伊丹のこれだろう」といって互いに大笑いし、ときの移るまで語りあったという。元禄~享保(一六八八~一七三六)のころ、招山・逸堂・未格らを中心として善光寺俳壇と称すべきものができており、小西来山・上島鬼貫らの影響を受け、芭蕉没後、蕉門の岩田涼菟・沢露川らの指導を受けたらしい。

 天明(てんめい)・寛政(かんせい)時代(一七八一~一八〇一)は、いわゆる天明中興とそれにつづく時代で、俳諧が大いに盛んになり、信濃出身の加舎白雄(かやしらお)・大島蓼太(りょうた)らが大活躍した。善光寺では、善光寺代官今井柳荘(りゅうそう)(磯右衛門)を中心として有力な俳壇が成立した。柳荘は代々大勧進代官をつとめる今井家の六代目で、安永(あんえい)九年(一七八〇)から文化(ぶんか)八年(一八一一)に没するまで、三十余年間代官をつとめた。その間、寛政(かんせい)六年(一七九四)、『水篶苅』を京都の書店から出版した。

 戸谷猿左(えんさ)は猿山の甥(おい)で、大門町で旅館を営むかたわら、天明から寛政にかけて北・東信に多数の門人をもち、その名は全国的に知られ、信濃を代表する俳人の一人だった。晩年は西之門町の小路に住んだ。

  薺(なずな)摘む小畑もあり庵の陰

 寛政六年に『竹原聖』を出版したのを手はじめに数冊の俳書を刊行した。一茶の有力門人だった佐藤魚淵(なぶち)・久保田春耕なども、猿左の門人で、一茶は猿左の没後、その門弟の一部を引き継いでいる。

 岩下文兆(ぶんちょう)・希言兄弟は大門町で茶・薬などを商い、文兆は蕪村の高弟高井几董(きとう)、江戸三大家の一人建部巣兆(そうちょう)らと親しく、寛政期善光寺俳壇の中心人物だった。希言も兄と並んで善光寺俳壇の中心人物であるばかりでなく、全国的にも名を知られ、兄とともに著書が多い。

 馬島玄也は大勧進の侍医で、高井几董門。書家馬善長(ばぜんちょう)としても知られ、明和(めいわ)七年(一七七〇)、「定額山(じょうがくざん)奉納四十八願法楽」を善光寺へ奉納した。宗祗(そうぎ)・芭蕉以下四八人の句を書いたもので、うち四五人は善光寺町の人、文兆・猿左・塚田道有(どうう)などが含まれ、当時の善光寺俳壇の隆盛がしのばれる。

 文化・文政期(一八〇四~三〇)に善光寺俳壇の中心だったのは宮沢武曰(ぶえつ)・林叢(くさむら)・上原文路(ぶんろ)らである。武曰は篠ノ井の出身で鐘鋳端(かないばた)の饅頭(まんじゅう)屋をつぎ、春秋庵(加舎白雄の号)二世常世田長翠(ときよだちょうすい)から、冬日庵(ふゆのひあん)の号を譲られ、専門俳人として活躍した。

  人の親の珠数(じゅず)も小銭も時雨(しぐれ)けり

 叢は岩石町の海産物商で本名彦右衛門。今井柳荘門。柳荘の庵号市中庵を嗣ぎ、善光寺俳壇をリードした。遺言して子孫に俳諧と碁(ご)・将棋(しょうぎ)を禁じ、今も守られている。

 文路は本名権右衛門。上原家は代々善光寺北之門町庄屋をつとめ、本堂再建のため、北之門町が新敷地になったので、新町へ移った旧家で薬種商を営んだ。一茶のもっとも忠実な門人で、一茶は文路の家にもっとも多く宿泊している。文路の前の家は美濃屋小林久七(俳名反古(はんこ))、穀屋で一茶が「反古長者」と称したほどの富豪であった。昭和初年、子孫の久七は信濃銀行頭取になった。