漢学・国学

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近世善光寺町からは塚田大峯(たいほう)・憎慈延(じえん)・岩下桜園(おうえん)など著名な漢学者・国学者などが出ている。大峯は桜小路の医師旭嶺の子で、旭嶺もはじめ儒学者をめざしたが、父の死により家業の医をついた。四男大峯は江戸で二十余年漢学塾を開き、名声が高くなり、尾張藩の侍講となり、文化(ぶんか)八年(一八一一)六七歳のとき、藩学明倫堂の督学(とくがく)になり、八八歳で没するまで教壇に立った。その弟慈延は冷泉(れいぜい)派の歌人として名があり、京都の和歌四天王の一人に数えられた。学者としても優れており、歌集の注訳などをおこなっている。しかし、この二人は故郷と関係が薄かった。

 岩下桜園は祖父猿左、父文兆、叔父希言がみな著名な俳人で、家は富商であったが、桜園の代から大勧進の寺侍になった。はじめ大峯や清水浜臣(はまおみ)・頼山陽に学び、山陽の詩風をもっともよく伝えた一人ともいわれる。『不繋舟(つながぬふね)』『桜園雨後』『天八衝(あめのやちまた)』など和歌・詩文・国学関係の出版物のほか、『善光寺史略』『善光寺別当伝略』『芋井三宝記』などの歴史書がある。歴史書が刊行されたのは明治以後であるが、博引傍証(はくいんぼうしょう)のすぐれた史書である。桜園は弘化(こうか)四年(一八四七)の大地震で岩下文庫の蔵書五〇〇〇巻を失ったというから、かなりの蔵書家でもあった。