近世善光寺町の出版

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寛政(かんせい)六年(一七九四)、今井柳荘が『水篶苅(みすずかり)』を出版したのをきっかけに、善光寺町では続々と 俳書などが出版された。ことに、寛政六年から同十二年にかけては信濃関係の出版物のうち、善光寺町関係のものは、三八種中一七種、約四四パーセントを占める(『近世地方出版の研究』)。その後、しばらくは中だるみの状態になるが、幕末には、ことに、蔦(つた)屋岩下伴五郎による出版がさかんになる。蔦屋の出版は、寛政七年七月の『善光寺略縁起』が、まとまったものとしては最初らしく、これは善光寺出開帳用として出版されたらしい。わずか七丁の小冊子で廉価だったらしく、享和(きょうわ)二年(一八〇二)の江戸出開帳では五〇〇〇部用意されるなど、近世にはめずらしく大量出版だった。この本は弘化(こうか)四年六月に三刻が出ており、蔦屋が大地震後、すぐに業務を再開していることが注目される。

 なお、この略縁起に対し本縁起にあたる元禄(げんろく)五年版『善光寺如来縁起』は近世をとおして何回も再版がつづけられ、弘化三年版には「善光寺御庭 小枡屋喜太郎」、「善光寺大門町向栄堂 蔦屋伴五郎」の二人が版元に加わっている。小枡屋はのちの西沢書店(大門町)である。

 蔦屋は善光寺大地震後、地震の絵図を出し、翌嘉永(かえい)元年(一八四八)には『俳諧一茶発句集』を刊行した。『一茶発句集』は文政(ぶんせい)十二年(一八二九)一茶三周忌を期して門人の手で江戸で印刷し、長沼で開巻されたが、蔦屋は同じ版で普及版を出しており、さらに増補普及版として小型の嘉永版を出した。ただし印刷は江戸でおこなったらしい。蔦屋の出版物は二四種わかっているが(矢羽勝幸「近世信濃の出版目録」『近世地方出版の研究』所収)、うち二〇種は弘化四年以降のものである。蔦屋の本格的活動は大地震後で、長唄正本なども出版している。蔦屋の活躍は明治初年までつづいた。


写真59 善光寺大門町蔦屋伴五郎版長唄正本「汐くみ」 文化8年、江戸市村座で演じられた坂東三津五郎の七変化(へんげ)の3番目。在原行平に愛された汐汲女松風が行平を偲んでいる場面。善光寺町付近に長唄愛好者が多かった証拠