新聞・放送は県下の中心

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現在、長野市の工業製品出荷額の第二位は印刷・出版業である。その素地(そじ)は近世後期の善光寺町の出版業だった・明治六年(一八七三)七月五日、『長野新報』第一号が刊行された。これが『信濃毎日新聞』の第一号でもある。発行所需新(じゅしん)社、販売元向栄堂は、ともに近世以来の大門町岩下伴五郎の経営だった。この新聞は県の御用新聞だった。その後、いろいろ名が変わり、明治十二年には岩下が経営陣から退き、同十四年には信濃毎日新聞になった。このころもまだ御用新聞で、同十八年三月には県の指示で郡長が各戸長に「各町村戸長役場において執務上必要の儀につき、爾今(じこん)、官報及び信濃毎日新聞必ず購読候様致さるべく」と半ば強制的に買わせた(『百年の歩み―信濃毎日新聞』)。この新聞を印刷した長野活版社は、明治十六年から十九年にかけて『長野県統計書』・『長野県布達全書』・『現行警察規則』などの官庁出版物を出版するかたわら、『真田三代記』『甲越信戦録』なども刊行した。

 明治三十二年には信濃毎日新聞の対抗紙『長野新聞』が創刊され、さらに大正五年(一九一六)には、『長野日日(にちにち)新聞』(前身は明治四〇)ができて、三紙が競合するようになった。昭和十七年(一九四二)国策により、県下の六新聞が統合され、信濃毎日新聞一社になった。新聞社はいずれも印刷工場をもち、出版もおこなったので、長野市はこの部門では県の中心としてゆるぎない地位を占めつづけている。


写真60『長野新報』第1号

 昭和六年(一九三一)、NHK長野放送局がわが国一一番目の放送局として開局。昭和二十六年には、信越放送が、わが国八番目の民営放送局として創立された。ついで同三十六年、長野放送が岡田町に、同五十四年、テレビ信州が中御所に(本社松本市)、平成元年(一九八九)に長野朝日放送が栗田にでき、民放は四局になった。このように、長野は新聞・放送などが全国的にみてもかなり早く始まり、信濃毎日新聞は現在発行部数約四六万部で、地方紙としては最有力新聞の一つである。

 長野市は近代工業の発展の面では、県下の中心ではなかったが、出版・印刷・放送などの機能が集中している点では、地方都市としては目立つほうであろう。