明治四年(一八七一)十一月十一日、西後町(ごちょう)の正法寺(現西本願寺別院)に、長野県学校が開校した。「学制」発布前の郷学校にあたる。明治五年八月、学制が発布され、同六年十一月、長野県教師講習所(師範学校の前身)が東之門町念仏堂跡に設けられ、その付属の児童を募集、これが、長野学校(のち城山小学校)になった。明治九年、長野学校は生徒五〇五人と多くなったので、妻科・鶴賀が分離して朝陽(ちょうよう)学校(のち後町小学校)を、同十年に腰・茂菅(もすげ)が分離して正誠学校を建てた。同十九年に長野・西長野・南長野・鶴賀・茂菅の四ヵ町村は上水内郡第一番学区となり、一区一校と定められ、長野学校が本校、後町は支校になった。明治二十一年長野学校内に上水内郡全町村連合会立高等小学校ができ、同二十五年に長野高等小学校となった(このころ尋常科・高等科各四年)。同三十六年に鍋屋田小学校が、大正三年(一九一四)には加茂小学校ができた。このころまで、いつも城山が中心校だった。
大正九年、市内の小学校を一校とし、城山・後町・鍋屋田・加茂をそれぞれ長野尋常高等小学校の部校とし、高等科は後町に置いた。同年に山王部を新設した。同十二年、長野市は吉田・芹田・古牧・三輪の一町三ヵ村を合併した。合併地区にはそれぞれ尋常高等小学校があるのに、旧市部だけ一校四部校では変だというので、大正十五年、五部校をそれぞれ独立させた。
このうち、後町小学校の移りかわりは、長野市街地の変化と関係が深い。後町小学校は大正三年に高等科が置かれてから、長野市の中心校になった。それまでは城山小学校が中心校だったが、大正二年、県庁が現在地に移転、市街も南へ発展してきて、後町は市の中心部、しかも県庁にもっとも近い地になり、後町小学校は長野市の中心校であるだけでなく、長野県小学校長会の事務局がおかれるなど全県の中心校としての役割りをもつようになった。昭和二十二年(一九四七)四月から二十五年三月まで、中学校だったが、中学校は他に移りまた小学校だけになりしばらくは中心校としての地位を保っていた。ところが、昭和三十年に二二四人あった入学児童は一〇年後の同四十年には八七人と激減、平成七年(一九九五)には一八人と、四〇年前の一〇分の一以下になり、一学級編成がやっとという状態である。鍋屋田(二七九から四九)、山王(三四一から四一)も後町に近い状態である。旧市の周辺には四つの小学校が新設され、人口が旧市から周辺へ移動していることがわかる。