中等学校・高等学校

160 ~ 161

明治十六年(一八八三)、上水内中学校が設立され、翌年、長野県中学校となった。同十九年、一府県一中学の制となり、松本へ移る。明治二十六年、長野・上田・飯田の三支校設立。長野支校は西長野に新築した。同三十二年、独立して長野中学校となり、昭和十五年、上松の現校地へ移った。同二十三年に長野北高等学校になり、翌年長野市立高等学校普通科を統合、同三十二年長野高等学校と改称した。

 長野西高等学校は長野町立長野高等女学校として明治二十九年に創立された。長野県最初の高等女学校であるのはもちろん、全国で一四番目という、きわめて古い女学校である。創立に努力した長野高等小学校長渡辺敏(はやし)が初代校長となり、大正五年(一九一六)まで在任した。創立に際してはじめは町会の合意が得られなかったが、説明のため演檀に立った渡辺は一言も発言せず、ただ涙をハラハラと流して壇を降りてしまったので、一同その態度に感心して女学校設立に賛成したといわれる。渡辺校長は日本ではじめて生徒に袴(はかま)を着用させ、飯綱・戸隠登山を実施するなど、異色ある教育をおこなった。昭和二十三年、長野西高等学校となり、同六十年から男女共

学になった。

 長野商業高等学校は長野市立乙種商業学校として明治三十三年創立、翌年、甲種になり、同四十年、現校地(妻科上野原)へ移り、長野商業学校となり、大正十一年県立になった。県下最初の商業学校で、県下一円、上越、群馬県草津方面からも生徒が集まった。

 長野工業高等学校は県下最初の工業学校として、大正六年、岡田に創立された。高等科卒、四年制で、ふつうの中等学校より一年長いのが特徴で、有能な技術者を多く送り出した。昭和四十一年安茂里へ移転した。

 このように、各種中等学校がすべて長野市に県下最初に設けられたのは、県庁所在地として地の利を得ていたこともあるが、渡辺敏ら先覚者の努力によるところも大きい。

 皐月(さつき)高等学校は、大正八年創立の市立長野実科高等女学校で、はじめ後町(ごちょう)小学校に、のち川端中学校に併設された。昭和十八年、長野市立高等女学校となり、戦後、市立中学と統合して長野市立高等学校となり、普通科と被服科を置いた。のち普通科を長野高校に移管し、昭和三十八年創立の市立第二高等学校(古里三才)と合併して現校名になった。戦前は補習科があり、小学校家事裁縫教員の養成に当たっていた。

 清泉女学院高等学校はカトリック系普通科高校で昭和二十四年城山に開校した。