祇園祭

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長野では「御祭礼(ごさいれ)」といえば祇園祭のことで、中世からおこなわれていた。祭行列の先頭に立つ大将は大勧進代官がつとめ、また、玉屋喜右衛門という商人頭が祭りに重要な役をつとめていた。

 近世には、六月十三日・十四日両日におこなわれた。町を東西に分け、東は大勧進が、西は大本願が支配した。祭神の天王は五月五日に妻科聖徳のツキの大木にお迎えし(天王おろし)、六月一日から十四日まで、西之門の御旅屋(おたや)に安置する。祭りが終わると天にお帰りになる(天王上げ)。十三日の夜、町内各戸の前に飾ってある祭灯籠(とうろう)を持ち出し、行列をつくって善光寺本堂へ参詣する。これを灯籠揃(とうろうぞろえ)といい、昭和四十年(一九六五)ごろまでおこなわれた。

 六月十三日・十四日は屋台・笠鉾(かさほこ)などの巡行で、これが祇園祭の最大イベントだった。近世には西方が先頭と決まっており、また、上西町の屋台が先頭と決まっていて、これを先車といった。この屋台(山車(だし))は寛政(かんせい)五年(一七九三)にできたもので、総黒漆で、はなやかな彫刻で飾られている(市指定文化財、口絵参照)。長野の屋台は弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺大地震で大部分が焼失、その後、だんだん新造して現在二一台ある。主なものは大門町(安政(あんせい)六年・一八五九製造)、東町(明治五年・一八七二)、西後町(ごちょう)(同年)、問御所町(同六年)、桜枝町(同二十八年)などで、いずれも妻科の山崎儀作(立川流)の作である。


写真62 西町の屋台 人形は柿本人麻呂。うしろは東町の屋台

 近世には屋台巡行や、その合間におこなわれる大踊り、小踊りなどという踊りもすべて町民によっておこなわれた。幕末・維新の動乱のため、慶応(けいおう)元年(一八六五)から明治三年まで中絶したが、同四年から復活した。明治四年十一月三日の天長節には県費で獅子を作って町々を踊り歩き、その獅子が権堂町へ下付され、権堂の名物として祇園祭にも参加するようになった。明治六年から祭礼の日が七月十三日・十四日となった。

 祇園祭ははじめ善光寺領だけでおこなっていたが、西後町(松代領)は宝暦(ほうれき)八年(一七五八)に屋台を造って加わり、権堂町も行列に参加するようになった。明治五年に問御所町が屋台を造り、同七年には横沢町・立町・元善町が参加した。横沢町・立町は近世には両御門前と称し、善光寺町年寄の支配下でなかったので参加しておらず、元善町はこの年はじめて町名も決まり、町として発足した。千歳町は同四十二年に、新田町・末広町・南千歳町は大正十四年(一九二五)に、南・北石堂町は同十五年に、緑町はもっとも遅く昭和二十七年(一九五二)に参加した。緑町は同二十九年、鬼無里(きなき)村松原から屋台を購入した。


写真63 東町屋台の天井飾り 明治5年、山崎儀作の作


写真64 問御所町屋台 明治6年、山崎儀作の作

 参加の町は順番に年番町をつとめることになっており、大正末年まで旧善光寺領の一三町が独占していたが、昭和二年に権堂以南などの一〇町が加わり、二三町になった。祇園祭の主導権争い(屋台の順番などの争い)は、明治中期ころ東方と西方との間で起こったが、大正七年はじめて南部(鐘鋳(かない)川以南)四町が、屋台巡行を菊屋新道(昭和通り)まで下ろすことを要求して争いを起こし、この争いは長くつづいた。祭りに出た屋台は明治後期は四十一年一五台、四十四年一六台など少なくとも一〇台以上だったが、戦後は岩石町・栄町・伊勢町が祭礼町から抜け、北部の町々は町勢が衰えて、全市で五、六台しか出ないようになった。昭和四十年に四台出たのが最後で、同四十一年には松代地震で中止された。翌年、御祭礼研究会ができ、昭和四十六年に『長野御祭礼史』という本が出版され、祇園祭での屋台巡行はおこなわれないようになった。その後は、諸行事にあわせて臨時に屋台巡行がおこなわれるようになり、平成三年(一九九一)五月十二日には善光寺開帳にあわせ、屋台巡行がおこなわれ、一二台が参加した。同九年五月二十五日にも開帳にあわせ、九台の屋台巡行があった。