太平洋戦争は長野市に大きな影響をおよぼした。戦時下ではすべてのことが国の統制下に置かれ、官庁の支配力が非常に強くなった。その結果、県庁所在地の長野の重要性が高まった。昭和十八年(一九四三)、一県一銀行の制が定められ、県下の六銀行が八十二銀行に統合された。新聞も昭和十七年に一県一紙となり、六新聞が信濃毎日新聞に統合された。信濃毎日新聞は戦争中も一日も休まず発行をつづけ、二十年には中央新聞の地方版も信濃毎日新聞で印刷されていた。出版業も統合され、加除式法規出版をしていた二一社が長野の大日本法令出版に統合され、昭和十八年、第一法規出版となった。東京の出版社が空襲でほとんど能力を失っても、長野の業者はほとんど無傷で敗戦を迎えたから、立ち直りは早かった。