八月十三日の空襲

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昭和二十年八月十三日は快晴だった。鹿島灘(かしまなだ)洋上の米艦を発進したグラマン艦上機が、軽井沢・上田をへて、午前六時五〇分から長野市とその付近を攻撃した。米軍機は五、六機から十数機がまとまって、五回にわたって波状攻撃をくりかえした。長野駅・長野機関区周辺、長野飛行場などが主な攻撃目標だった。駅付近では国鉄職員六人と、石炭がら山で機関銃で応戦した広島部隊の兵三人が戦死した。一四歳の「学徒報国隊」員約二十人は防空壕(ごう)に避難したが、ロケット砲弾で倒れた建物で、入り囗をふさがれてしまった。それを取り除いた副隊長(三八歳)はつぎのロケット弾で戦死した。その他、居町の日本無線寮で二人、若槻療養所で五人、長野飛行場で三人、その近くの防空壕で一家九人など、長野市とその近郊で四七人がなくなった。機関区の建物のほか、民家一戸が焼失したが、類焼はなかった。


写真67 本県への初空襲を報じた『信濃毎日新聞』昭和20年8月14日号