戦争中の統制経済により官庁の仕事が多くなった。戦後には、社会福祉・労働などの新しい行政事務が増え、また、経済の発達にともなって官庁や公社の仕事が増えてきたので、県庁のある長野市にそれらの官庁の出先機関がたくさんできた。
戦時中から戦後にかけて、長野市にできた主な官庁公社の出先機関は、次のとおりである。長野食糧事務所(昭和十七・一九四二年)、東京逓信局信越管理部(同二十年。二十四年にこれがわかれて、長野郵政局・長野郵政監察局・信越電気通信局・信越電波管理局となる)、関東財務局長野財務部(同二十一年)、長野労政事務所(同二十二年)、長野労働基準局(同二十二年)、農林省長野統計調査事務所(同二十二年)、長野行政監察局(同二十三年)、長野鉄道管理局(同二十五年)、長野地方公安調査局(同二十七年)、長野総合職業訓練所(同三十年)、長野営林局(同三十一年)。
合同庁舎は、長野刑務所が須坂へ移転したあとへ設けるよう、長野商工会議所が中心となって要望、陳情し、ここに三つの合同庁舎ができ、国の出先機関の多くがここへ集中し、たいへん便利になった。
行政庁舎は、昭和四十一年完成、長野行政監察局・関東財務局長野財務部・名古屋税関長野出張所・農林省長野統計調査事務所・同上高井出張所・信越電波管理局・長野労働基準局・長野労働基準監督署・長野婦人少年室が入った。
法務合同庁舎は、昭和四十年完成、長野地方検察庁・長野区検察庁・長野地方法務局・長野地方公安調査局・長野保護観察所が入っている。
裁判庁舎は、昭和四十一年完成、長野地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所・長野検察審査会が入っている。
平成二年(一九九〇)には第二合同庁舎が完成。権堂町にあった自衛隊長野地方連絡部などが入ったほか、旧庁舎から全部または一部が移ってきた官庁がある。
県庁・県議会議事堂は昭和四十三年に完成。県庁本館は当時は県下最大・最高の建物だった。