旧市の人口減はいちじるしく、昭和三十年(一九五五)に七万一〇〇〇人だった人口が、四〇年後の平成七年(一九九五)には三万七〇〇〇人とほぼ半減した。大型店の郊外転出もつづいており、商店も住居を郊外にもつ人が増えている。
しかし、いちがいに旧市が衰退したとはいえない。県庁・市役所・各官庁はほとんど旧市またはその近くにある。新聞社、放送局も旧市か、大正十二年(一九二三)合併の区域内にある。
権堂町は昭和三十年に二八〇七人だった人口が平成八年には六〇九人と四分の一以下になっているが、商店は約百十軒、飲食店・スナックなどは約六百軒あり、夜の繁華街としての繁栄を失っていない。
長野市は都市再開発のため、諸種の事業をおこなっている。昭和四十二年から平成五年にかけて長野駅西口(善光寺口)の区画整理が実施された。この結果、長野大通り・東西連結地下道・長野電鉄地下駅なども整備され、ながの東急・MIDORIなどの核店舗は地下道で結ばれ、この地区が市内の一等地となる基盤が確立した。
東口でも平成五年から区画整理事業が始まり、また、東口・西口を含む「長野駅周辺地区都市拠点綜合整備事業」が平成十五年完成の予定で進められている。東口は新幹線開通にあわせ整備され、市道山王栗田線はガードで県道長野駅長野東インター線に接続した。北石堂町は「防災建築街区」として、木造建築をとりこわし、九棟のビルを建てた。現在、長野駅前A地区、問御所町などでもビルが建築中である。
また、高層住宅が続々と建てられているのも注目される。平成二年、権堂に地下一階、地上一三階、住宅・店舗七六戸のビルができ、平成二年から七年にかけて、中央通りと鐘鋳(かない)川通り交差点南側の西後町・東後町・権堂町に地下一階、地上一〇~一一階、各四一~四三戸のビル三棟が落成した。東後町は平成二年にわずか九戸だったのが、いっきょに四二戸に急増、このビルは長野市景観賞を受け、一階にはFM放送局が入り、ビル前で日曜市が開かれるなど、やや活気を取りもどしつつある。
オリンピックに備え、長野市はホテルの増築・新築が盛んで、その大部分は旧市内である。常住人口も高層マンション建設などによってある程度の歯止めはかけられており、日中も夜も、郊外から入って来る人びとの数は多く、旧市内はけっして空洞化してはいない。