地方行政の区画分合

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明治四年(一八七一)の廃藩置県当時までは、旧幕時代の制がつづいた。政府は同五年、それまでの庄屋・名主・組頭などの村役人をやめ、同六年長野県を七二区分し、区に戸長・副戸長を置いて、土地人民に関する事務を処理させることにした。芹田地区は第五四区となった。同年十月には大区・小区を設け、同七年改めて大小区制とし、芹田地区は第二二大区第二小区となった。同八年千田(せんだ)村と南俣(みなみまた)村が合併して稲葉(いなば)村となり、翌九年には荒木(あらき)村と市(いち)村が合併して若里(わかさと)村となった。これは時の長野県権令の指導によった。

 明治十二年一月、大小区制は廃止となり、水内(みのち)郡は上・下に分かれ芹田地区は上水内郡となった。同年川合新田(かわいしんでん)村は、郡界の変更により更級郡から上水内郡になった。同十七年にいたり、若里村では、旧荒木村と旧市村がいまだに慣習や利害などが違い、種々都合が悪いからと分離問題を起こした。これに対して長野県令は、両村はともに国道に沿い雑居し、村界の設定もむずかしいことなどから分村を認めなかった。同十八年には連合戸長役場が設置され、中央集権統制の再強化をはかるため、公選制を官選にし、管轄区域も栗田村・稲葉村・中御所村・若里村・川合新田村・風間(かざま)村・大豆島(まめじま)村の七ヵ村、一五一七戸に拡大し、役場は稲葉村一四六番地の瑠璃光(るりこう)寺庫裏(くり)に置かれた。