明治二十二年(一八八九)の市制・町村制の実施にともない、有力町村をつくるため町村の合併が進められた。県は明治二十一年、稲葉村・栗田村・中御所村・若里村を一村とする初案を示したが、それに対し各村はてんでんばらばらの答申であった。そこで、第二案として稲葉村・栗田村・中御所村・若里村・鶴賀(つるが)町の一部(七瀬・居町)と川合新田村をもって一村とすることを再諮問(しもん)した。しかし、依然として村々の答申がまちまちであったため、知事はついに命令で第二案をもって一村とし、同二十二年四月一日新たに芹田村が発足した。このとき芹田村は、戸数八七三、人口五〇〇八、反別六七四町歩余(約六六八ヘクタール)であった。