中世になって律令制が崩れるにつれ、芹田郷が荘園化して千田荘が成立した。九条道家(藤原氏・関白)が、千田荘を建長(けんちょう)二年(一二五〇)に孫の忠家に譲与したことが『峰殿置文』にある。この荘園は、のちに不断念仏料(九条家のために念仏を唱える費用)として善光寺に寄進された。
市村郷域は、現若里あたり(北市・南市はもとは市村)であったと推定される。
市村郷・高田郷は、『兵範記(へいはんき)』によると保元(ほうげん)元年(一一五六)までは平正弘領であったが、正弘は同年の保元の乱で敗れたため、翌年没収されて白河院領になった。文治(ぶんじ)二年(一一八六)の『吾妻鑑(あずまかがみ)』の「乃貢未済庄々注文」には「市村・高田荘 院御領」とみえる。このころ後白河法皇領となった。のち長講堂領(皇室領)になり、御院の皇女(むすめ)宣陽門院を経て、文永(ぶんえい)四年(一二六七)後深草上皇に伝領され、その後も皇室領として持明院統の経済的な基盤となっていた。
市村・高田荘は、北信濃の皇室領の最大のもので、本年貢は白布(麻布)一四五〇反などであった。また、毎年七月の中・下旬、院の門番をする兵士三人を二〇日間送りつづけた。そのほかにも、正月には御簾(みす)・御座(ござ)・砂など、三月の御八講という仏事には砂などの納入を義務づけられていた。