栗田東番場 栗田氏歴代の居館跡で、栗田城・堀之内城と呼ばれた。二重の堀をめぐらした複郭式平城で、長野市では最大規模の館跡の一つである。東西七〇九メートル・南北一〇九〇メートル、回字形で主郭跡は二一八メートルの方形である。現在、主郭跡には西から北にめぐり幅一一メートル、高さ九メートル、長さ四〇メートルほどの築堤が残る。北西隅には水内総社日吉大神社本殿がある。西の築堤外側にあった堀は、昭和四十八年(一九七三)に埋められて遊園地になった。平成二年(一九九〇)、旧城跡内のグランドハイツ東公園建設にともなう発掘による出土品によって、栗田氏の館跡であったことがより確かとなった。水戸栗田系図の寛覚の傍注に「栗田禅師初テ信濃国栗田郷ニ居住ス。依テ本名村上ヲ止メテ在名栗田ト号ス、同国戸隠明神別当ヲ兼ヌ」とある。この寛覚(寛範・範覚寿永(じゅえい)二年(一一八三)没)は、村上氏(鎌倉初期有力御家人)の分家で栗田氏の祖である。史料上では、応安(おうあん)三年(建徳元年一三七〇)信濃守護上杉朝房(ともふさ)が栗田城を攻めたのが栗田城の初見である。寛覚から戦国時代末までつづくおよそ四〇〇年間の城であった。城跡付近には、本城・部屋田・東番場・舞台などの地名がある。