千田城跡

193 ~ 194

中千田字館沖 明治初年の調べによれば「東西四五〇メートル・南北三七五メートル、四方は濠(ほり)で中間が本郭(東西一〇〇メートル・南北七五メートル)である。そのまわりは土手、西・北・南は濠で、その周囲は外曲輪(くるわ)である。本郭西の一段高いところに、千田氏の遊亭があったと伝えられ、その地を今、雲中舎と称している」とある。この城は、初代千田仲清(なかきよ)(二代親清が築城)から一〇代の信親(のぶちか)までおよそ四〇〇年間、千田氏代々の居城であった。信親が上田原の戦いに破れて越後に逃れ、武田の領地となり廃城となった。

 現在は、国道一八号が横切り、周辺も宅地化して一部が畑として残っているだけで、城の面影をとどめるものはない。